楡男 一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと
2018.07.16 (月, 海の日) 行儀がま

近頃アトピーがひどかったのでとうとう対策に乗り出して、手始めにセルフモニタリングとして1時間ごとの体を掻く回数を記録してたんだけども、記録していると回数だけでなく自然にその中身にも意識が向いてくるもので、観察してると私は「すべてが滞りなく進んでいる」状態が崩れたとたん体を掻き始めることに気がついた。ということは、私はきわめてしばしば体を掻いているということだ。「すべてが滞りなく進んでいる」状態が崩れるとは、すなわち何かを考えなければならないということだから、私は何かを考え始める機会ごとに体のどこかを掻いていることになる。電車が遅延していることに気づいたときとか。明日の朝食の買い物をしていて、食べてみたい惣菜パンを2種類見つけてしまったときとか。Ankiのカードの画像が間違っていたので更新したつもりが、端末間でうまく同期されなかったときとか。この日記を書いていて文章がすらすら出てこないときとか。四六時中だ。人生は問題解決の連続なのだから(解決しないことのほうが多いが)。ということなので、考えるということは生きることにつきものなのだから、いちいちうろたえずに、もう少しゆったり構えたら? と他人事のように言葉をかけてみたくなるのだった。

2018.07.08 (日) 大型フラミンゴ

現在19:40。ねむい。いくつかの店にふられて都心から撤退を重ねつつひいひい言いながら夏の道の上を歩いてフライパンの蓋を買う等のミッションをこなした後ひとりカラオケをして帰宅しましたが、さて帰って何をするんだっけという点が明確でなくて、思い出すのもおっくうな部屋の中、コーヒーでよけいまろやかになったまどろみというものがありますよね。月一で実家に帰るのですけども、実家から自宅へ戻るときに毎度のごとく近所を散歩して、小学校の前を通り過ぎたりしてノスタルジーというほどでも今更ないがまた新たに何かを感じたりするものですよね。それよりも今日はひたすら夏バテで、楽に生きるためにはどうすればいいのかしらと心に思うしかすることがなかったのですが。あ、思い出した。自宅で、市政調査に答えようと思っていたのだ。それはよくて。ホームページのレイアウトを少しばかり成長させた後でおもむろに日記でも書こうと index.html のソースを開いたら div タグがわしゃわしゃ蠢いていて、こんな更新しづらいソース流行るかよと思いました。今時ソース開いて直接編集する人なんていないと思いますけど。たぶん。

金曜の夜は新入社員の歓迎会で、社長に勧められて日本酒ばかり何杯も飲んでいたら酔い過ぎて、終わったあと二次会があることも忘れてすすーっと帰ってしまったし、寝て起きたら胸が苦しいし頭痛ではない仕方で頭が痛くなっていました。なんか頭皮が痛いのだ。どこかぶつけたとしか思えないが、ぶつけていない(断言)。夕方ぐらいにようやく体温を測ってみたら 37.1 度で微熱でした。

2018.07.07 (土) 自律神経を失調したかのような様子(微熱がある)

寒気がする。外界は寒くないのに鳥肌が立つ。そのくせ汗は出る。

肌が乾く。唇がガサガサする。私の周りに、私ならぬものがびっしりまとわりついているようだ。

背中についた無数の小さな傷のせいで、かゆさと痛さの間にある触覚がうるさい。

息を吸うと胸が苦しい。

顔がむくんでいる。左目の下が盛り上がっているように感じる。そのせいで冴えない顔つきになっているように感じる。

2018.07.01 (日) #2 ミトコンドリア伯爵

夜7時にフライパンと帽子を買いに自転車でふらりと出て、隣駅周辺の島忠から逆側の隣駅にあるライフまでぐるりと回り、白髪の親父さんが切り盛りする少々寂れたラーメン屋で夕食を摂って戻ってきた。一人で夜の中を自転車飛ばしつつ、さびしさパワーを貯めてるのだと嘯きながらも、わかったのは私は端的に寂しいのだということである。夏になるとそうかもしれない。彼女ができた2年前の夏も、生きていても何の張り合いもないと無気力になっていた頃だった。いま、抱えている恋に関して手を打っておかないと、とても重い夏になりそうだ。

2018.07.01 (日) 更新履歴

気まぐれで当サイトのメンテナンスを(中途半端に)行ったので、その記録を残す。

  • 2016年2月~2017年12月の分を過去ログに移した。
  • ログのインデックスページの文字化けを直した。SJISでエンコードされてた+エンコードの宣言をしてなかったのが原因だけど、他にも同じことしてるページがある気がしてならない。手元のブラウザで表示させたら他は問題なかったが。
  • 2015年のログ (Serene Bach 使ってた頃) が Forbidden で見れなくなってたので、見れるようにした。 Serene Bach が吐いた HTML とかをそのまんま置いておくという横着な対応をしてたら見れなくなっていたので、普通の HTML に置き直しました。 → PowerShell で HTML を parse するなどして快適にやりたかったが、うまくいかず結局手作業に。
  • ログのインデックスページはもうメンテするというレベルではないね。一から書き直さないと改善できない……と思うが、今回はもう疲れたのでまたいつか。
  • CSS を使って少しばかり見た目に色気を付け加えた。トップページだけね。いや、過去ログ見てて、色ついてる方が読みたくなるなって気がしたので。動作おかしいとこはあるかも。
2018.06.30 (土)

体力づくりに夜のジョギング……をしようと思ったが、しばらくさぼっていた(というより、仕事が忙しくて、走る余力がなかった)せいか、前回久しぶりに走ったら鎖骨の内側あたりに酸欠のような苦しさを覚えるようになっていたので、今日は早歩きにした。そこで考えたこと。休日は誰とも会わなくて、それ自体は快適なのだが、どこか物足りなさというか、隣に誰か居てもいいんじゃないか、という感覚を持つことがないと言えば嘘になる。はっきりと症状として現れているわけではないが、寂しいのだと思う。恋人となぜ別れたのだろうと、ついに思ってしまった。昨年末に別れを切り出したのは自分だけれども、彼女のことは折りに触れ思い出すし、その接し方について反省もする。なぜ別れたのかということについてよく考える。私は二人でいることが窮屈だったのだ。それに尽きる。一人で落ち着いて過ごせる場所でないと、生きていくために不断に必要とされるアイデアも浮かばない。恋人がいる時代の私は、それまで積み上げてきたものを少しずつ切り崩していくような、消費一辺倒の生き方だった。大して引き出しのあるわけでもない自分を削って削って、やせ細っていくばかりだった。どうしてそんな生き方を選んでしまったのか。それは結局のところで彼女のことを信頼し切れなかったからなのだろう。彼女に自らを委ねても大丈夫だと思えなかったから、他人としてパフォーマンスを披露するだけの相手という捉え方から抜けられなかったのだろう。私は、たぶん、恋人には甘えたいタイプなんだけれども、彼女と話しているときに彼女の考え方に強い歪みがあるように思える瞬間があって、究極のところで心を許せないなと思ってしまったのだ。私はきっと、女の子に許されたかったのだが、それが叶えられないと知ったから、結局は別れたのだろう。間違った思想をもった人間に(そこには同族嫌悪も多分に含まれていたに違いないが)頭をなでなでされても癒やしにはならない、むしろそれは穏やかならぬこととして私の目には映ったから。

……実は前にも何度か同じことは考えたことがあったのだが、夜の闇のなかであらためてはっきりと言語化して思って、ああそうか俺は甘えたいのだっけ、と思い出したかのように視界が開ける心地だった。いま、意中の人はいるのだが、彼女はどうなのだろう。

そういえば、「こうしているときが一番楽しい」とか「夢中になれる」みたいな対象が(色々なことに興味を持っているつもりでいて)これといってないな、俺の人生は彩度が低いなということを思ったのだが、その点でいうと意中の人のことを考えてる時間が一番楽しいし、考えてみると私はこれまでも年中女性のことばかり考えて過ごしてきたなぁとまたもや気付かされるのであった。

あと、こうして元彼女の思想の歪みとやらをあげつらう一方で、それを書いてる私自身の歪みもまた恥じるほど露呈しているようだけれども、それをいちいち辿り直し検討してまわることはここではしない。それは単にここまで書いて疲れたからなのだが。

なんか、アップロードしたものをぼおっと見てたら、このindex.htmlに2016年2月の日記までが載っており、実に2年4ヶ月ほどログのメンテナンスを怠っていたことに気付いて、過去ログ移すかーと一念発起したまま昔の日記をひっくり返して読んでたら、俺昔にもこんなこと言ってるんだね。

なんかまあ思うのは、あなたとわたしはクリティカルな点で似てしまっていたということじゃなくて(目をそらして)、互いがいつもより自由になれるような関係であったらよかったよねなんかよね。なんだか相手にあわせて自分を削って出してるようで、相手と自分との積集合としてしか存在していないようで、いいコになんかなるなよ、いいコになんかなるな、きずついたってウソだよ、がんばったって無理だというお説教が聞こえてきました。きずついたってウソなのになんで傷つこうとするのか。(2014年1月24日)

2018.06.26 (火)

風呂から上がってパンツを履いて、腰掛けたらお尻の部分がきれいに裂けた。またひとつ大人になりました。

2018.06.24 (日)

ストレスを感じると必ず体のどこかを掻いているんだけども、そう捉えたときに振り返ってみると四六時中私はストレスを感じてるわけ。いまこうして文章を書いているときもそうだ。書く内容を(考えるというよりは)思い出そうとしている瞬間、私はどこかを掻いている。「掻く」と「動作する」を行ったり来たりしながら私は前に進む。そう思うと、恐らくだけど、ストレスが前に進む原動力になっていたりするようにも思う。その意味で、ストレスはすっかり排除してしまうべきものではないとも言える。(むろん、過度なそれは禁物だけれども。) ただやっぱり自分はストレスを飛び抜けて感じやすい方だなという自覚はあって、それは焦燥なんだな。いま文章を書いているときについて言っても、ストレスの源泉は焦燥で、「書くべきものを外に出さなきゃいけない」とか、「早く書き終えて公共料金の振込に行かなきゃいけない」といった義務に掻き立てられている。「べき」思考が強くて、焦燥を感じやすい心の傾向がある。何かにつけ「べき」が忍び込むその考え方は不合理だから変える努力をする甲斐はあると言えるだろう。また、自分は飛び抜けてストレスを感じやすい方だという自覚があって(さっきのは書いてる途中で思いついたことをそのまま続けて書いてしまったので、仕切り直し)、テレビを見ながら布団を上げるというだけでもうだいぶストレスなのだよな。これは、マルチタスクが苦手、というところにつながっているのかもしれない。できないことをやろうとするとき、心には負荷がかかる。

2018.05.12 (土)

午前中というか昼下がりまであらゆることのやる気が起きず、Twitterを開いたりおやつを食べたり自家発電したりしていたのだが、夕方前になって耳にイヤホンを差し込みiPod miniから手始めにミスチルを流すことでようやく部屋の掃除をする気になった。というより体が勝手にそう動き出した。ともあれ今日は部屋の掃除ができたことになる、俺えらい、と自分で自分を褒めた。自分を褒めることのできる人は、通常は(と言いつつ、本当は決してそうではないのかもしれないけど)他人に依存する自尊心や自己評価といったものを自前で確保できる点で、そうでない人よりも一歩強いんだな、ということを考えた。

ここからはさらに抽象的な話になるけど、 (1) 昼までの「何かしなきゃ」と思いながらもすべきことに取り組めずに気晴らしに逃げていた、じりじりするような時間をより気持ちの良いものに置き換えたいという意識が一方ではありつつ、 (2) 昼過ぎから部屋の掃除に取り組むことをそれ自体としては認めて肯定してあげることで心の基礎体力の向上を図る、という、別々のことを私はここでしていて、……つまり生活の問題をそれぞれ独立のものと見なすことでものごとをよい方向に向かわせようとしてるわけだ。このようにして「分ける」という戦略は何かを考える上で有効な効果を見せるたしなみとしていつも存在しているように見えるが、そのつまり、「分ける」という戦略が有効なのはなぜなのかな、と不思議に感じなくもない。形而上学的に言って、世界がそのようにここのパーツに分節されて存在しているからか? でも思考とは認識論的な領域だしなぁ……、等。

2018.05.11 (金)

仕事を終え、社屋を後にする。いつものように夜の闇に歩み出て、初めて、自分が求めていたものが何なのかを知る。いや、事務所で仕事をしている時も、かすかな可能性として、それは見えていた。しかしそれは気付くと言うにはあまりにもろい、冗談のような霧のような真実だった。

2018.04.28 (土)

紙の日記にしようと思っていたけど、人に読まれることを意識して文章を書く、ということに今日はなにがしかの意味があるように思えて、ひさびさに、しかしあいかわらず、「index.html」をサクラエディタで開いている。わたくしはプログラミングが得意でないほうのシステムエンジニアなので、お気に入りのエディタはサクラなのだ。それでいいのです。前回から月日は流れ、入力方法がSKKではなくGoogle日本語入力のかな入力モードになってました。そのことについて気の利いたコメントはありません。思い出したから書いただけ。

ものごとを一歩引いて見る、ということを学生の頃は自然とできていたものだが、いまはもっぱらゼロ距離で手触りでしか判断できていない。もっと言えば、見ずに走り抜けることだって頻繁にある。

書いて考えること。一人でじっくり整理してみること。私は人に注目されていると頭の回転が停止してしまう質なので、自分の見ている世界を組み直す作業をするには一人になるしかない。そしてその作業を自然発生的にではなく、意図的に推進する手段としては、書くということがやはり筆頭に挙がる。

なんだけど仕事終わって家に帰ると、調子いいときは料理して、めしを食って、しばしだらりとして、風呂に入り、クリームと薬塗って、歯磨きして、NHK見て、あれして寝るじゃない。最近は定時で帰れることが多くて、その点恵まれてる(と言うべきなのかはわからないが)けれども、でも単にただ目の前の課題を片付けて生きているだけだと考えがどんどん近眼視的になるし、凝り固まっていく。知的であることを維持するには、プラスアルファの工夫が必要だ。今はゴールデンウィークだからこうやって書いてるだけだよ。

しかしなんかいつも、久しぶりに口を開けば「書くこと」について書くばかりで、今日や最近あったこと・思うことの話に入らないのだよな。このゴールデンウィークは、私は、なるべくのんびりと過ごすことを目標に掲げたのだけども、すでにその目標の修正を強いられているような状況です。のんびりしたいと思ったのは、近頃休みの日になっても日用品の買い出しやら、日課の一人カラオケやらカレー食べ歩きやら寝だめやらで一日が過ぎてしまい、真実に休んだ気がしないな……と悩んでいたという背景があるのですが、買い出しはともかく他は好きなように遊んでるのになんでそれで休んだ気がしないねん……と思いました自分で。やはりなんでも「必要だから」でやってしまうのだねぇ。休日にしっかり楽しんでおかないと平日に響く!みたいな。それで、確実に楽しみを得られそうな、実績のあるものに手を出してしまいがち。それか、確実に有意義だったと言えるよう、「必要なものを買う」活動で時間を埋めてしまう。確かにそれ自身は必要なことなのだけども。

2018.02.24 (土)

新刊書店に本を見に行った。見に行ったと書くのは、買うべき本は事前にかなり明確に(つまり、タイトルまで)目星をつけて足を運ぶのだけども、実際に購入に至るのは持参したリストのうち半分にも満たなかったりするから。まぁ、普通のことなんじゃないでしょうか。買うに至らなかった本の内訳は、「図書館で借りて読む」だったり、「必要になってから買う」だったり、「読む必要はない」だったりするわけですな。ところで、新刊書店を歩き回っていると、そこそこの高頻度で、体が熱くなり、汗が出てきて、息が上がり、ものごとを考えられなくなってくる。新刊書店で、と書いたものの図書館でもこれは起こる。長居はできず、買うかどうか決めたら速やかにレジに持ち込み、会計を済ませて店を後にする。

新刊書店は都心にある。今日は、その人混みの中を駅を目指して歩くことがすでに苦行だった。もともと自由に歩き回れない環境は苦手だが、前の人が遅くてペースが乱れることにも、かと言って横にずれて追い越すスペースがないのにも、すれ違いに人の腕などがぶつかってくるのにも、日頃より強い、致命的な苦痛を私にもたらした。叫んだり、突き飛ばしたりしたくなる。疲れていたのだろうと思う。新しい場所、新しい仲間との仕事が始まった。通勤電車はことごとく混んでいた。睡眠は多くても6時間程度しかとっていなかった。6時間睡眠でも仕事はできるのだが、それは足りてるか足りてないかとは直接関係なかったらしく、昨日は10時間半ほど眠った。

あと、帰りになんか寂しくて、一瞬だけども、少し惨めな気分になっていた。それを理由に(理由には十分なると思うのだけども)彼女を作ろうとは思わないのであるが。私にとっては今のままで十分に忙しすぎるから。

2018.02.06 (火)

昼休み、席でぼうっとしていた。本を読むでもなくスマホをいじるでもなく、手持ち無沙汰にするでもなく。周囲の音を聞いていた。意識的に聞くでもなく、聞こえてくるがままに聞こうと努めた。目はただ目に入ってくるものを見、視線が向かうままに対象を捉えるようにした。心の動きがあれば観察した。それがどんな動きであるかということを言語化するよう努めた。こうしたことをしなければならないほど、普段、自分が感じていること、考えていることに対して、自分自身が無自覚だ。また、自分が自分に対して隠蔽されているのと同様、他人に対しても、自分の心、期待、不満、好意、尊敬、疑問、などなどといったことを悟られないように動いてしまう。何事もないようにふるまう。自分が、自分からも他人からも不可視になる。動いてるときにはそれが癖になってるから、止めようと思っても行為のただ中で正気に返ることができない。ただ、何もしない、手も口も動かさないでいることによって、ひととき、自分という人格が自由に活動しはじめる。

2018.01.04 (木)

正式に彼女と別れた。ほんとに悲しい。紙の日記にもすでに書いたのだけど、おんなじことが書き足りなくて、ネットにも書いてしまう。彼女と別れた。悲しい。もとはといえばこちら側から切り出したのである。ありていに言えば振ったのだ。でも別れというものはこんなにも悲しいんだな。

私の部屋に置いていたもろもろの荷物を回収するついでに、彼女は手紙を残していってくれた。この人とは、最後まで分かりあえなかったな。読みながら、そう思う。お互いひとりよがりだったのだと思う。相手の気持ちをしっかり確かめずに、こう考えているはずだ、で押し通してしまう。あるいは自分の本当の気持ちをあらわにすることを恐れて、それなりに快適なところへ落とし込もうとする。僕は、この先もまた彼女ができたりなんかしても、うまくやっていける自信がない。これは単なる失敗経験からくる自信喪失などではなくて、他人と共に生きることへの適性の欠如をほんとに悟ってしまったのだと、考える。彼女との相性が悪かっただけでなく、自分は親密な人間関係というもの一般に向いていないのだと。そう考える。とはいえ、ちまたを見回せば、失恋からくる「単なる」自信喪失を語るその言葉の多くもまた、なんらかの理屈をともなったものであり、そのかぎりにおいて私の「他人と共に生きることへの適性の欠如」も、そのバリエーションの一つでしかないようにも映る。やっぱり、俺は典型的なしかたで落ち込んでいるだけのようにも見える。

この洞察を裏側からたどり直すなら、失恋して典型的な仕方で落ち込んでいるように見える人も、その「ありがちな」言葉の中にはその人なりの具体的でリアルな悩みや考えが潜んでいるということでもあるのだろう。表現した結果としてそれが意外とありきたりで、「なんかみんな悩むことはあまり変わらないね」という総括になったとしても、それは鳥瞰的な視点から眺めたときに見える景色であって、地上にはそれなりに切実な、色とりどりの悩みを抱えたそれぞれの人がいる。そういうことに今ここで反省してみて気づく。使い古された表現の裏にある、個別的な経験の厚み。

……

ここではつい冷静なことを書いてしまうけれど、実際は書いてる本人はこの件にたずさわって涙を流したりもしているわけで(ついでに言うなら、(元)彼女はもっと辛い思いをしていると思う)、わかると思うけれどこの文章は事柄の一側面を切り出しているにすぎない。でも(これだけ書いておきたかったのだが)彼女と付き合ってた1年ちょっとの間、ほんとうに泣くことが多かった。それはいいことでも悪いことでもないんだけど、ただ、それまでの人生の累積と比べても、その10倍以上は涙を流したはずだ。人間ってそんなに変わるものかなと思った。

過去ログ Twitter: @elmman