楡男

2017.04.27 (木)

例の電子工作の表紙を数秒じっと見てはモンモンとする日々でしたが、結局よくわからないというか、俺はあのカエル君(表紙のキャラクター)を救ってやりたいのだと思った。カエル君には悲しみがある。俺にとってカエル君は悲しみだ。その悲しみは俺という個人に強く結びついているゆえ、カエル君を救うことは自分自身を救うことにもなるのだ。見ていて鬱になる原因は結局明確になっていないが、本の中身を開けて読んでいる分には話題にしてきた鬱や空しさは湧いてこないあたりを見ると、ごく一般論として入口にたたずみ外見だけを眺めてあれこれ恐れたり忌んだりすることは多いんだよなあということを思い起こしたりする。外から見た姿と内から眺めた姿とどちらが正しいということはもちろんないけれども。

Twitterに書く程度のことがらを思いついて、しかしTwitterに帰る気にはいまさらなれなくて、しかししかしTwitterに書く程度のことを日記に書いていけない理由などないという理屈をむしろ積極的な理由に転化してこれを書き始めた。

4月になってお給料がそれほど上がらなかったのを周囲からの自らへの評価に結びつけ、自らへの評価をそのまま自らの価値に結びつけることで、すこし自分を責めていた。ときどきそうして、単純なストーリーが浮かび上がって、よくわかる妥当な対策をとる気を起こしたりする。『いやな気分よ、さようなら』の訳本やはり買うか。原著はもってるけど英語だと本を取るのも置くのも重い感じ。


2017.04.20 (木)

「鬱 対処法」とかで検索したら、うつの初期症状は不眠となんとかとなんとかであると出てきて、なぁんだ自分の鬱は序の口もいってないのだなと拍子抜けしたのだけども、それはそれとして自分の体調や心調(?)の変化に敏感であることはそれ自身美徳であるかな、と思うし、美徳だからといってそれをひけらかす理由もないのだけども、気付いたことを話したいので鬱日記の2。

会社の帰りにiPod nano(2GBモデル)の電源を入れれば、Ponzu islandの「Super Koto」が曲の途中から流れ出した。これはとっても良好な電子音楽で、公平に見て傑作だと思うのだけども、鬱の自分からすると、こんなに色んな音やフレーズを重ねて盛り上げようとしなくてもいいのに、という気持ちが一瞬頭をよぎった。といっても、一瞬だけ一人で興醒めしたあとは、曲のリズムがつんのめるのに合わせて歩調を変えてみたり、「Ponzu Beach」のローファイなイントロが流れ出したときにはニンマリと笑みをこぼしてしまうぐらいで、体は素直に反応する。言い換えれば、鬱は言語や思考といった理性のはたらきに属することがらなのだろうなと思った。「属することがら」とかってもうちょっと特定的なことばで表現しうるところなのだろうとジリジリ思いながら書いた一節ですが、現実をその程度の解像度でしか見ていないのだから把握していないものを書きようもないなとあきらめた格好です。そろそろねなきゃだし。

それにしても、自分が昨日思いつくままに書き散らした鬱フレーズを反芻すると自分ながら胸がしめつけられる。こりゃ毒だな。いま一度反省してみると、「取り返しのつかなさ」がこの感じの背骨にあるみたいだ。取り返しのつかないことをしてしまった、という絶望感。あるいはむしろ、取り返しのつかないことをしてしまった人を見ているときのいたたまれなさ。みたいなのを受信するアンテナが人一倍敏感になるもよう。事態が悪くなっていくのを止められない。ひどい状況を指をくわえて見守ってるしかない。何かが望ましからぬ方向へ進展するが自らはそれに関与しないという構図。「そんなにしないで」


2017.04.19 (水)

図書館で借りておいた本の表紙をなにげなく見て、死にたくなった。あの気持ち。思い出す。まえにもあった。生きててときどきある瞬間。本は、『電子工作のキホン』という本だ。書名を名指しで挙げることには、具体例を示したい以上の意図はない。目の当たりにしているもの以上の具体例がぱっと思い浮かばないだけで、批判したいとかではもとよりない。近頃残業が続いていて、私生活でもちょっと重苦しい天候が続いていて、壊れて声を上げて泣いてしまう瞬間もあるような人生の一節の中を進んでいるのだけども、書いてたらなにを言おうとしたのかわからなくなった。話を戻せば、ある絵、イラストを見て死にたくなる瞬間というのが僕の人生にはときたまあって、そこに直面したときにいつも言葉を失ってしまう。正体はわからないけれども、とてつもない空しさにとらわれてしまう、ことがある。今日それに出会って、言葉にしようと表紙を見つめていたのだけども、ぴったりとは嵌りきらない断片を2,3見つけただけにとどまり、これじゃあいかんと久しぶりにここに書き始めた。もう0時を回っていて、夜のお仕事して寝なきゃいけない時間なのだけども、いやむしろ酒も入ってるし(あからさかに度数の高いものよりも、チューハイや缶入りのハイボールのようなもののほうが酔いが回りやすい気がする)、すぐに寝たっていいのだが、このままじゃらちがあかんので書いている次第なのです。

そもそもアイデアが浮かんでいないものを文章に構成しようもないので、この表紙を見ながら思いつくままに感じたことを拾ってみる。ファンシーで単純化された絵柄、ただ単純化というだけでなく一種人間とかけ離れた特徴へとデフォルメが施されている絵柄を見るとこの感情が喚起されやすいようだ。舌なめずりをしている。作業に没頭している。それが見ていていたたまれない。孤独な作業だ。趣味というものの空しさ。このキャラクターは何かを楽しんでいるがそれは無意味だ。いろんな部品や道具を用意してしまった。それだけのために資源を一箇所に集中させてしまった。楽しさ、熱中、それらがかえって空しい。「初めてでも実例を通してステップアップできる!」とある。「!」がかえって空しい。向かうべき方向はそちらではないのに、張り切ってしまっている。ステップアップしなくていいのに、ステップアップしようとしている。

……俺は鬱なのか。書いてると俺の精神的な状態があまりよろしくないのだろうということは見えてくる。けれどもこうしたイラストや言葉、メッセージの持つ色合いをとりまぜた、一言でまとめればコンポジションの特性についてなにがしかのことを言えた気はしない。せいぜい、鬱なる俺と、ポップでニッチな方角にエネルギーを使おうとするメッセージのコンポジションとの間に生じるある種の関係について一定のことが特定できたに過ぎない。僕自身、電子回路のことについて知るのは今楽しいのだけども、今日は楽しくない。俺は鬱なのか。俺はそれとも寂しいのか。なんかここ数日よりも早く帰れたことと、彼女があまりしつこくしてこなかったことが響いているのはわかる。やはりこの日記の中で、主題化されているのはむしろ俺のほうだ。俺は鬱なのか、という日記だこれは。別に、鬱がなおると良いとか思っているでもないし、この表紙を見つめながら死にたい気分に浸るのも悪くはないというか、それはそれで固有の体験ではあるのだけども、結局なんにも見えやしないというか。なんでこういう絵にとりわけ感染してしまうのか、という点が。

ちょっと別の本開いてみて、料理のレシピ本でエプロンかけた女性が「レシピどおり作るとおいしい!」としみじみ感激している挿絵を見つめてみた。やはりむなしさを見つけた。おいしくなくたっていいじゃないか、という気持ち。また、1点思い出したが、実家で飼っていたうさぎのエサの干し草のパッケージに描かれていたイラストのウサギもまた、この気持ちを喚起させたことがあった。ペットに餌付けして喜ぶ人間のエゴ……。あらゆる文化への嫌悪だ。わかってきたのは、いまみたいな気分のときって、死なないために必要なこと以上のことをむしろ積極的に排除したいような傾向が出てる。生存を維持する以上のことに取り組む元気がないから、最低限以上のものはむしろエネルギーを吸い取る悪魔となりうるということか。うむ。やはり元気がないのだ。早く寝たほうがいいな。でもファンシーな絵だと死にたさ3割増しになるのはなんでだろう。ポジティブな面が増幅されて出てくるから、反発する力も強くなるみたいな。ことかなぁ。いまいちはっきりしないな。

ちなみに書名を出しそびれたレシピ本は『料理のきほん練習帳』です。平熱の姿勢で評価するなら、よく練られたいい本だと思いますよ。実際おいしく作れるし。


2017.02.23 (水)

平日0時なのだが酒を飲んだついでに書いてしまう。

「たとえば哲学者としての僕が「言葉の意味ってなんなの?」「正義なんてないんじゃないの?」と聞かれたら(詳しく問いの所在を聞きつつ)素手で考える前にまずこんな教科書や参考文献を読みましょうねと言うと思うんだよね」(Twitterより)

こんな発言を見た。文脈がいまいちわからないので、発言の真意は実際のところつかめていないのだが……って前提で以下言うと、「素手で考える」という価値観の弊害というか、「自分の頭で考える」ことを標榜する人の生産性の低さみたいな話は確かにうなずける部分はあって、先人の積み上げてきた成果の上に乗ることでしか結局のところ建設的な話はできないのだろうと思う、正しい見識なのだが、でもそれをみんなの前で言おうとするときにそれこそ「素手で考える」とか「自分の頭で考える」みたいな抽象概念を出してきてある種嘲笑する、とまでは言わないがどこか下に見るような響きを帯びてしまうのは、いや、そう見えてしまうのは僕が自分の読書量が少ないことを引け目に感じるあまりゆがんだ景色を見ているのかもしれないし、悪意がないところに悪意を感じてしまう傾向があるのは最近とみに自覚しつつあるところではあるのだが、ともあれ、「理にかなったことをしようぜ」と誘いかけるときにそれがイデオロギー同士の闘争という外見を帯びてしまうのがなんだかいつも皮肉だなあと思っていたのです。まぁ皮肉でもなんでもないのかもしれんけど、目指してるところそれでいいのかなあと。理性的なビジョンを見せつつ実際にやってるのはオルグ活動と違うのかなと。繰り返せば、そこに明白は矛盾はないのだけど。

思うのは、「あいつらが気に入らない」が発言の背景にある人ってけっこういて、そのとき、議論の本体がどれだけ冷静でも、やっぱり背景にある黒い情念が見え隠れしてしまって、全体にくさみを与えてしまうんだなとか。そう、ちょうどこの文章みたいにね。……って言って、実際にそうなってしまっているだろうから興醒めなんだけど。誰かが嫌いだったらはっきり嫌いと言うしかないよね。間違ってるとか非効率だとかじゃなく。


2017.02.19 (日)

休日の朝ごはんを近所のサンドイッチ屋さんに買いに行く。事前には何も考えてこず、すでに何度も見たラインナップを改めて舐めて見ることで品定めをする。コロッケサンドが目に止まる。コロッケサンドはおいしい。バナナオレと一緒に王道の朝食だ。(バナナオレとコロッケサンドの朝食はひょっとしたら試したことがなかったかもしれないが、信頼のおけるもの同士を合わせた食事は、きっと期待通りの結果を保証してくれる。) 心が決まりかけた頃、季節限定の菜の花サンドが目に留まった。菜の花はおいしい。それをサンドイッチに挟むのはやや意外だが、きっとおいしいに違いない。心は揺れる。安定のコロッケサンドにするか、新機軸の菜の花サンドにするか、という「問題」が立ってしまう。それはさらに、親しみのあるものを選ぶか、慣れないものを選ぶかという「対立」へとたちまち化ける。そうなると難問で、店の前で考え込みそうになってしまう。

昨日という休日を一人で過ごしたことにより反省が進み、自ら変化していきたい気持ちが高まっていたので、変化をもたらそうと菜の花サンドを選んだ。ただし、変わったものを選ぶことは必ずしもよい結果をもたらすわけではない。新製品のスナック菓子やらインスタント麺は何かのついでによく買ってしまうが、たいがいは「うーん、、まぁ」というような感想しか残らない。時の試練をかいくぐった伝統的な味のほうが、圧倒的に多くの場合すぐれている。まぁそう言うならば菜の花サンドだってそこそこ伝統的なのではないかという気はするが。脇役だというだけで。話を戻せば、単に新奇なものばかりをとっかえひっかえ取り入れるって方針は、質のよいものに出会う機会をいたずらに減らしていることにもなりかねない、って事情はあって、手放しで勧められるものではない。というか、それは端的にあまりよくないことなのだと思う。

それで結局、コロッケサンドと菜の花サンドとの間で揺れ動くみたいなことは生きてる中でよくあって、そうした時にどっちを選ぶべきなのかを示唆してくれる一般的な方針があれば便利なのだが、、、という話です。直感で決めればいいんだ、直感で、とおっしゃるが、やろうとしてすぐにできるようになるわけじゃないし。ヒントは、菜の花サンドを見たときに、こりゃおいしいだろうという確信がわいていたということだ。確信に従って行動することは人間を強くする。それに従って失敗しても、失敗から学ぶ姿勢ができている。習慣に従って選べば、結果の評価もなあなあになってしまう。


2017.02.18 (土)

なにから書こうかな、そしてまた、すべてを書く体力も時間もない――時間がないというのはまあ、体力がないというのもまあそうだが、もて余した時間も体力もないという意味であり、キリンジを聞いている。木曜日かな、いつもより早めに仕事を上がれたのでツタヤに立ち寄ってキリンジのベスト盤を借りたのね。なにかCDを借りようってときにいまだにベストアルバムばかりになってしまうのがもう業の浅さっていうか。広く浅くっていうか。さほど広くもないし(自己嫌悪)。俺は時間がないのではなく、そんなものに割く時間はないってケチっているのだ。その代わりに何に時間を費やすことができただろう。意味もなく一駅歩くぐらいが関の山ではなかったか。日が暮れてきて、車しか走ってないような田舎だし、川沿いの人気のない歩道を1時間ばかり歩けば運動にもなるし気分も出ただろうけど6時を過ぎれば2月のこの季節には十分に夜だ、慣れない地域の一人歩きには人さらいへの恐れがいつになく顔を出して、文章を書いてると、また人に向けて何かを話してると、ああこの事柄を俺はうまく言葉にすることができないぞって場面にぶち当たって何も語れなくなり押し黙ってしまう数秒・数分があるのですけど、それも2,3文に1度ほどのペースであるのですけど、皆さんはどうなのでしょうね。言葉は使っていないと使えるようになりませんね。最近は仕事に時間がとられていて会社ビルに閉じ込められているのですけども、金曜日だったか、気温が上がって、食堂で昼ごはんを食べて帰るときに窓の外は晴れていて、でもあのビル日光が差し込んでこないんですよ。1箇所しか入ってこないの。で、こんなに天気がいいのに、仕事なんかを言い訳に外に出るのを怠って、こんな日に本当にすべきことは外に出て散歩することなのにねぇ、とため息をついて見せるのでしたが、他人事ではなくこれは自分のことなのにため息をついている場合ではなかったんだよな。しかしそんな気分が忍び込むのは今の仕事(プロジェクト)に面白みをいまいち見出せてないからでもあって、面白いというか、過分な仕事を与えられている気がどうしてもしてしまうのですが、でも僕がやってて楽しかった仕事って学生のときのバイトで書類の枚数がちゃんと揃ってるか数える仕事とかそのくらい単純で決まりきったやつだったし、でもそういうのでも一日8時間週5日とかやったら夕陽に照らされた影を伸ばしてうつむき加減に川辺を歩く日暮れもあるだろうし。何してたって楽しいばかりことではないのはわかりますが今日は彼女とも会わず実家にも帰らず、買い物もせず、一日を浪費することができ、気持ちよかった。有意義なことをしようと心がければ理想と現実のハンバーガーで苦しくなるけど、有意義なことはしなくていいと心がけても読みかけの本を読み進めておこうとするし、たいして享楽的な人間ではないんでね。だらだらするだけで。

あと、すでに1週間以上前のことになってしまうけども、高校のときにとき好きだった女の子のことを思い出す朝があって、あんなに聡明で立派な人は大学でも会わなかったし今自分の周りにもいないなぁと思ったのだけども、まぁバイアスなのかもしれませんね。今会ったらそこそこいそうなオタクに収まってるかもしれないし。でも小学・中学・高校までのほうが色んな人がいた気がするなって洞察はときどきあって、選別が効いてないからね。大学とかも色んな人いたけど、それはバックグラウンドが違うって話であって結構みんな考えてることは同じだったりして、高校では教室という狭い場所だったから違いが際立ってただけなのかな。あの子は授業中に手を上げられる子だったのよね。僕の心のやらかい場所をちくちくいじめる存在だったのですよ。今は授業中に手が挙げられなくてもそこそこなんとかごまかしてやってけますからね。いや、その子のことだけじゃなく、その子とよくつるんでいた小説の好きな少女でこの人もまたものごとをはっきり言える人だったのだがその人が夢に出てきて、当時恋愛対象として意識してたわけじゃないんだがその人と親しげに話す夢を見たのに気付いて、なんかヘンな気分になっていたのだった。高校時代の人たちとは卒業以降一切連絡がないので、その後どうなってるのかなってないのかまったくわからないのだが、どうなってるのかな。Facebookを検索したりはしないが。はい。働きすぎてヘンな夢見たわ。ってな話でした。働きすぎって言うと残業100時間とかをイメージするけどぜんぜんそこまでじゃないから、語弊あるが。


2017.02.05 (日)

文章のサイトを何年もやってきた自分が言うのも何だけど、ものごとを言葉にすることにすごく苦手意識がある。

……てな一文をまず、えっちらおっちら書いた後、机の上のペン立てからおもむろに耳かきを取り出して耳そうじを始めたあたりからも、その苦手さが読み取れるんじゃないかと思う。ついでに言えば、(ここでまた耳そうじ)ここに表れているのは「言葉にする」部分を司るモジュールの問題だけじゃなく、(ここで数十秒止まり頭を掻く)(段落の初めを読み返し、口に手を当ててしばし考える)(ここまで括弧書きをつけた後、キーボードから離した手を合わせてモニターを見る)……副次的な情報がだいぶ挟まってしまったので言い直す。ものごとを言葉にする際に詰まるというだけではなく、そのときに耳かきを始めたりしてしまうあたりを見ると、「言葉にする」というモジュールに問題があるだけでなく、それ以上に、気が散りやすいという性向があるんだろうなと思える。

で、この切り口から何を言おうとしたか忘れた。僕には書かなければならないことが多すぎる。ビジネス的には前提と結論を決めたら枝葉末節は切り捨ててビシッと議論するのが正解なんだろうけど、しかし、結論を忘れた。そんなに有意義で独自の話だったとも思われないしね。思いついた当時の僕にとってはそれは刺激的で新規な観点だったのかもしれないが、それは僕の人生の歩調に合わせたものでしかなく、読者にとってそれが同じように新規で刺激的な話なのかは保証できない、というか、そうでないと考えるほうが賢明でもあるし。あるし……、というか、読者にとって何が有意義なのか、という観点で言えば、じゃあ一つ一つの話を場当たり的に拾いながら中途半端に検討しつつ体力不足で投げて終わるような話を読まされて有意義なのかと考えると、どうなのかなと思うのですけど。思うのですけどね……。ただ、話の途中で無数に生まれる「これはこれでいいのだろうか」という迷いを、この場では掬いあげてやりたいという思いはあって、それを実践しているわけなんだよね。

書き始めると長くなってしまう。きっと、僕がひとつのことを説明しようとするときには、こういう夾雑物が背景にいっぱいあって、そいつが出てこようとするから、言いよどんでしまうのだと思う。

そうそう、で、今日は労働の話をしようとしていた。かつて就職活動したときは、とにかく一人暮らしを始めたいという動機があったから、「労働とは」みたいなことをほとんど考えずに済んだのだけど、働きはじめてからあらためてはじめて考えている。

日が暮れてからのそのそ街へ出て、夕飯にあんかけチャーハンを食べて、帰りにショッピングモールのカルディでスイス産のチョコレートを買って、歩きながら食べてた。甘かった。甘ったるいものが好きだ。さらに、自販機でポッカの微糖コーヒーを買って、チョコレートのお供にしたら甘さとよくあっていて、良かった。良さがあった。生きているとこんなふうに「良さ」と出会うときがある。そしてまた、生きることの目的って(生まれたことの目的じゃないよ)、こうした「良さ」を見つけることにあるとも思う。誰しもそうではないか。ものを食べるにしても本を読むにしても、デートするにしても贈り物するにしても。だけど、働いているときは「良さ」と出会う機会に欠けている。まったくないわけではない。だけど、働いてないときのほうが「良さ」と出会えるのも本当だ。それはある意味あたりまえで、働いてお金を得なければ「良さ」を見つける準備ができない。働くことは「良さ」と無関係なのではなく、その前提、下準備となるものだ。だけど、働いてお金をもらうという制度なんて人間が考えて構築してきたものであるはずで、だとしたら、働くことが「良さ」とかけ離れたものであるのは、あたかも設計ミスのようである。良さを見つけるパートと、そのために淡々と準備しておくパートとに生活を分けることが、この労働という制度の眼目なのだろうか。それによって何が実現されたのかを見るのは、いまや容易ではない。私たちはあらかじめそういう前提の世界に投げ込まれてしまっているからだ。けれど、なんか割に合わないなぁという思いがいつもあって……。われわれにとって快適な世界をみんなで目指してきたはずなのに、意外と息苦しい結果になってるよねみたいな。まぁ身も蓋もないですが。「労働」があたりまえになるにつれて、それがそれ自身として価値をもち始めたのが問題の源泉なのかなとか、手を止めてつらつら考えていたが、長くなってきたのでここまでにする。目的と手段のとり違えはあらゆるところで起こりうるし、それは避けえないことだとも思うが、個人レベルでそれに対抗できることがあるならば。

推敲のために冒頭のとこ読み直してて気付いたんだけど、このサイト(何度も移転はしてるけど)10周年を迎えていたのね。驚いた。


2017.01.16 (月)

病院行ったうえで一日休んでもうた。出勤しようと思えばできたけど、近頃仕事がハードなもんで、中途半端な体調で行くとつらそうだなという判断のもと。まぁ休めるタイミングだったからいいのだ。深く悩むことはない。病院行って、帰って上司に休む連絡して、昼食と買い物に出掛けて、寝て起きて、買い忘れたものを買いに行って、ちょっとだらだらして夕食作って、食べて、まただらだらして、気付いてみれば回復のために寝てたのは2時間半ぐらいだ。生産的なことはなにもしなかったのに一日は短い。別に生産的なことをしない日があってもよいのだけれど、してもしなくても一日は過ぎゆく。今日は時間もあるしごはんを作ろうとノイズレスサーチで探したら大正製薬が風邪を引いたときのレシピを公開していたので、夕飯に「蓮根餃子」と「沖縄風炊き込みご飯」を作った。ひさしぶりに自炊すると色んな具材が入ってておどろく。外食でも品数は増やせるけど、店を選定するというステップがあるし、うまそうと思わせるもの=商品として優秀なもののパターンってきっと決まってるから、食事が偏りがちなのは否めない。もちろん自炊でも手を抜こうとすればいくらでも抜けるし、実際仕事に出てる日に毎日この水準のものを用意するのはやる気の面から言って現実的ではないとは思う(帰ってきてから餃子包むとかさ……)。けれど毎日玄米炊くぐらいはしておいてよいと思った。あと味噌汁と蒸し野菜でも添えとけばそこそこましな食事にはなるだろう。

無駄口が過ぎた。というか、いつしか長い日記を書くようになっていた。まぁいい。特別なことをしなくても一日は過ぎゆく。日々を維持するためにするべきことの多さ、なのだろう。本当はしなくてよいこともその中にはあるだろう。だけどそれを取り上げることは今日はしない。さて、このあとはさらに買い忘れたものを買いに行き(ええかげんにせぇ)、風呂に入ってから軽くお酒を飲み、彼女と連絡を取って、早めに寝る。といっても今からでは12時近くなってしまうだろうな。


2017.01.15 (日)

結局日曜のこの時間(現在23時)まで風邪引いてた。というよりまだ全快していないから、ふたたび悪化して明日会社を休むというシナリオもありうる。と、やや唐突にそんな可能性を持ち出したのは、そのシナリオも悪くないかな……という思いがあるからなのだが。

1日寝てりゃよくなるかなと思って高をくくっていて、確かに今日の朝はだいぶ楽になっていたんだけど、ああよくなったよくなったと寒い中隣駅まで歩いて郵便物を取りに行って、中華料理を食べて、買い物してそれをリュックに詰めてなどして、家に帰ってパソコンで音楽を流しながらぼちぼち作業などしていたらまた頭が痛くなってきた。風邪をぶり返させる要因がありすぎる。良くなってきたし軽くカラオケでも行こうかなと思っていたのは、やや冒険だなという自覚はそのときもあったのだが、明白に愚かだったと言うほかない(結局は行かなかったが)。ほかにも、帰ってきてパソコンで作業(半年ぐらい前から使用不能のままになってたパーティションの削除とか)しながら、ウォッカの染み込んだハリボーをつまんだりしたのもやはり風邪を甘く見てるとしか思えない。

つい反省ムードになってしまった。今回風邪を引いたのは、仕事で忙しく疲れがたまっていた&夕食が粗末になり栄養が偏っていた&急に冷え込んだが十分に暖かくして寝なかった、というコンボが背景にあるのだが、金曜日に仕事を上がってお疲れさまでしたーって立ち上がった瞬間ぐらいに「あっ風邪引いた」ってわかったのは驚きだった。そこまで抑制する機構がはたらいてるんだって驚きもあったが、しかし仕事をする用に体がチューニングされてしまってきているのもなんだかくやしい。仕事をしなくて済むようにできてるほうがイケてるよね、やっぱ。

あと今回はバファリンではなく葛根湯で対処してたんだが、目覚ましい効果はなかったというか(そもそもバファリンも明確に効いたと自覚できたことがないんだけど)、葛根湯飲み忘れたあとに汗が出始めて具合よくなってきたので、処方間違ってたんじゃないかという疑惑がある。2日目なんかすでに「ひきはじめ」じゃないもんな。やっぱお医者さん行くのが一番ということすかね。葛根湯の味好きなもんで、つい飲もうとしてしまう。

全快せずに2日目に食い込むのが自分としては意外で、一旦良くなったものがまた悪くなるのも経験したことがなかった。やはり齢なのか。病気には「頭が痛い」「喉に違和感がある」などの、特定の感覚が生じている系の症状と、「ごはんが入っていかない」「呼吸が楽でない」などの、体の機能に支障がある系の症状と、少なくとも2種類あるんだなと気付いた週末だった。普段こうじっくり病気しないからわからないんだよな。夜はおかゆを作って、ゆっくりゆっくりとしか喉に入っていかず、「あれーおかしいな」とつぶやいていた。

さて、こうしてポチポチキーボード打ってる間にまた悪化してくるかもしれないので、なるべく明日出られるように早く寝よう。ちょっと良くなると調子乗っちゃうという自分の性格がわかった。おやすみなさい。


2017.01.14 (土)

風邪引いて家にいる。掃除だけは済ませた。石油ストーブは暖かい。とめどなく風を排出し続けるエアコンよりもやさしい。インターネットに俺の居場所はもうない。Twitterを、また一月ほど前から覗くようになった。けれども参与はしない。はっきりした理由もない。でもTwitterはやはり俺にとってはSNSで、コミュニケーションの場で、はっきりやりとりしなくても、エアリプを飛ばさなくても、へぇこの人はこういうこと考えてるんだとか、この人がこういうこと言うとはねぇとか、関心を向けるということが、すごく薄いけど、コミュニケーションだったんだなあと、整理する。インターネットを通じて人間に触れる環境というのがいまないのだ。有用な情報とか、「みんなが見てるもの」っていう最大公約数的なものしか入ってこない。パソコンをつけてVBAかコマンドプロンプトの勉強でもして過ごそうか、とパソコンをつけた。Twitterで大学の頃の知り合いのアカウントを覗いた。たまに話してみたいなぁと思った。思った。考えてみれば学生の頃からその体勢はさほど変わっていないのかもしれない。

しばらく寝た。ひどい体調とまでは言わないけど早く治してしまいたいと思う。意識を冷静にして、その中を流れる感覚を俯瞰すれば、大したことが起こっているとは思えないのだが、でもつらいかといえばつらい。

その、冷静に俯瞰したときに眼に映るものを列挙してみればこうだ。頭が痛い。喉に違和感がある。寝ていると、喉がつまって、えづくことがある。体が熱い。こんなとこかな。一つ一つは大したことないけど、合わせ技になると体力を奪うということだろうか。しかし単独でいっても、頭痛は人から活動力を奪う。流れる感覚そのものがつらいというよりも、その中で活動していくことに支障があって、仏教で言うようなままならなさの辛さなのだろうか。でも寝てるだけでもつらいといえばつらいんだよね。理解することとその中を生きることの違い。わかることとやることの違い。わかることがやることに資するためのものだとすれば、わかることはやることの忠実な写しにはなりえない。


2017.01.10 (火)

夜はネギ玉牛丼にした。うちは松屋が近いので松屋なのですが、松屋って「たまに食べるとうまい」ときと「たまに食べるとまずい」ときがあるね。まあー面白みのない食事だことと今日は悪態をついていた。

隣の席には、同僚と思われる女性を相手になにかを得意気にまくしたてる男がいた。食べながらちらちらと気にしてはいたものの、彼が店員に向かってビールのおかわりを告げたのを耳にしてすべてを納得した。アルコールあってのこの饒舌か。しかし牛丼屋でビールを二杯も飲みあまつさえその口で女子に説教(?)を垂れるなど、ろくな男ではあるまい。などと心の中で思って一人で悪人を懲らしめたような気になっていたのだが、そこでちょっと思ったのが、対人攻撃といわれる誤謬/虚偽/詭弁のたぐいがあるが、そうよばれる立論が100パー間違ってるってわけではないんだよね。ある発言をするその人の資格を問い質すのは、それ事態においては問題ない。汚職にまみれた政治家が「賄賂はよくない」と言っていたら、「お前が言うな」とツッコミを入れるのはまぁ不適切ではないはずだ。注意したいのは、こうしてツッコミを入れているときにわれわれが問題としているのは、くだんの政治家がその発言をする資格があるかどうかで、言いかえれば、問題の中心が「賄賂は不正であるか」という命題よりもその政治家のほうに移っているということだ。その政治家のことをまず問題にするのが適切だというんなら、対人攻撃はなにも間違っていない。論点のすり替えってよく言うけど、くだらない話がされているときにもっと大事なことに話を転換させるのは必要なことだ。能書きが長くなってきたが、ここでひとつ発見だな、と思ったのが、対人攻撃ってそれ自身は誤りじゃないけど、対人攻撃に出るとき人は誤りを犯しやすい心境にあるんだろうな、ってこと。松屋で酒に酔って饒舌になったあんちゃんのことを「くだらない」と決めつけたのも、きっと話も聞くに値しないだろうと断じたのも、自分がそれ相当に感情に流されていたからだろう。「なんとなく気に入らない」を暗黙の論拠にすれば、たいていの立論を斥ける――聞かずに済ませることができる。ある種の詭弁はお手軽な逃げ道だ。いや逃げたい気持ちになっているからこそ、詰めの甘い論拠に手が伸びてしまうのだ。早くその話にケリをつけてしまいたい欲求に駆られるとき、詭弁が顔を出す。……なので、虚偽とか詭弁と言われているものを見つけたときの適切な反応は「それは詭弁だ」と騒ぎ立てることではなく、その場に冷静さが失われているのではないか、と慎重になってみることなんだろうな。

関係ないが、レンタルサーバのアクセス解析をオンにしてみてて、リファラなんかを辿っていたら大学生の頃に書いたブログについ最近(去年ごろ)になって匿名の「通りすがり」からコメントがついてるのを発見して、、、なんか赤面した。青臭い思索は青臭い反応を呼ぶものらしい。曰く、それについては私も悩んだことがある、だが今は考えが先に進んでいるから導いてあげよう的な。その気持ちはよくわかるのでよけい赤面する。だけど僕はもっと優しくいきたかったんだよ。いまも。


2017.01.09 (月)

昼寝した。いやあよく寝た。いったん寝出すと2時間や3時間は必要ね。ちゅうとはんぱに昼寝すると、起きても頭に鉛がはいってるみたいにくらくら、ふらふらしてしまうんだ。この3連休の土日は休みだったんだけど、自分が休みで彼女は用事ありの構成で、僕が彼女の家(というか仮住まい)に泊まりに行ってた。ただ、人の家よりも自分の家のほうがどうしてもよく眠れてしまうという環境適応の問題もあり、彼女の用事が朝早いのに合わせて起きていたのでどっぷり眠ることをしなかったという理由もあり、連休最終日になってまぁ昼寝をした。昼寝をする申し開きなんていらないのに、おれはだれに断わっているんだろう。時間を有効に使うことへの、同調圧力じみたこだわり。そしてその「有効」ということへの無反省も含めて、いまでも身体に巣喰っている。

夢の中で、職場の人々とは同じ教室で日々を過ごしていた。ある非常事態が明らかに起こっていて、その中で私は、水がないのにビート板を持つと体が浮くことを発見し、控え目に周囲に知らせてみせた。

それ以降の夢は覚えてない。

2,3時間寝て、ようやく起きようかなという状態に体がなってきたとき、ここで起きるべきか起きないべきなのかの迷いに立たされた。ごく日常的に立たされる、根拠のない問いだ。もっと寝ていたほうがよいのではないか――YesなのかNoなのかは、その場で確信のもてることではない。起きて用事を済ませたり、楽しみになることをしたほうがよいのではないか――それも、寝起きのぼやけた頭にとってはさほど心の踊ることではない。その場で答えなんか出るわけないんだけど、答えが出なきゃ動けない。だけどそう言いつつも、十数分かすると体を起こして日記なんか書いている。ようするにそうして迷っている状態というのは本人にとっても十分に居心地が悪く、いつまでもそのままで耐えられるものではないというのが一つある。そしてまた、日記を書くということ、文章でもって自分の考えや感じたことを記述するのが、いまでも自分にとって魅力あるいとなみ、意義の深い活動なんだという自覚もある。自分がどういうときにくつろぎを感じるかと問うたとき、ものごとをきめこまかく把握することに対して心地の良さを覚える、と答えられる。サラリーマンとして暮らし始めて気付いたのが、目的を果たせれば途中のプロセスは省いてもよい、というルールが「仕事」という場にははたらいていて、ひとつひとつのことをもらさずじっくり考える、という活動はその中で抑制されることがある、ということだ。ただし、間違ったものとしてそのルールをあげつらうわけではない。仕事でなくともいつでも、考えるべきことと考えなくてもよいことをより分ける必要はあるのだが、仕事ではそれを意識的にさせられるため、目立つ。かつ、そのより分けの規則が、個人の気ままな関心とは一致しないことも多い、というだけだ。だから、言いかえれば、気ままに気のゆくままに考える時間というのが僕にとっては「必要」なのだ――そう言い切ってしまってもよいように、近頃は思っている。たまにしか日記を書かなくても。わかりやすい実害がなくても。日記を書くことは、自分の見えてる世界を自分の目で再確認する、という作業ともいえる。裏返せば、自分が見えてる世界がふだんは十分に見えなくなっている、ということだ。自分が暮らしている世界と自分が見えている世界とがいつもいくぶんずれているために、書くということを求めるのかもしれないと思う。


2017.01.04 (水)

正月休みが終わって明日からまた仕事だ。時間をもて余すと人間考えることが志高くなるもので、ものごとを基本的なところから理解するようにしようとか、タスク管理をきちんとしようとか考えて、知らない街を散歩しながらせっせとその構想を深めたりするわけですよね。「ていねいに生きたい」という欲望をいつでも私たちはもっていて、こうして大した目的もなく散歩するような暇が与えられることでそうした欲望はひさしぶりに顔を見せる。……裏返せば、私がこうして、食べたり飲んだりしたものの一口メモをEvernoteに残すことを決めたり、したいこととすべきことをRemember The Milkで管理しはじめたりしても、その習慣が明日以降も続く保証はなんらないわけで、というかむしろ、正月休みに入るというトリガーをもってそうした「ていねい」方針が立ちはじめたわけだから、そのトリガーが解除されれば「ていねい」方針もまた成り立たなくなるのが自然というものなのだ。

悲観的になって終わる。残るのは、僕は引き続き生きているという事実のみだ。


2016.12.29 (木)

年末休暇だけど彼女は学校いっちゃったしやることなくて、さて掃除でもするかと音楽をつけたらなんか具合がよくってパソコンの前でそのままだらだらと昼になっていた。時間に押されて部屋の何箇所かを掃除して、昼ごはんをこしらえて食べて、それからそのままパソコンの前で延々とえっちな映像を漁りどおしで、そのかたわらにときどきツイッターを覗く、というありさまで、ほんと一人で生きているときの所在なさに向き合わされるのだなあと感じるのであった。休みに入ったらPrologとかSmalltalkとか触ってみようとふわふわ甘く思い描いていたけれど、結局なにも取りかかっていない。生きることに対して根本的に意欲がない。したいことはほんとうはない。いや、したいことがないというのはほんとうは嘘で、ただそれを行動に移せないのが問題だという気もする。ただ自分に自信がないのもあいかわらずで、いわば、つまり自己肯定感といわれる概念装置に訴えて今わたしはなにかを納得しようとしているのだけれど、まぁ、いわば、昼に上司から電話がきて、業務的な質問で、聞かれたことを答えられなかったのは心苦しい。わたしの価値とは。とか。

したいことはほんとうはない、とか、自己肯定感、とか、わたしの価値とは、とかは、なにか自分が置かれている状況を他者に伝えるための道具であって、そうした言葉を口にすることでいろいろなことが一挙に聞き手に伝わってくれて便利なのだけども、だからといってその言葉が醸し出す出来合いの事実に縛られる必要もないわけで。いや、縛られがちなのが厄介なんだけど、よくよく反省してみれば、「したいことがない」だけが事実ではないわけだから。「したいことがある」もまた、一つの事実なわけだから。伝えるための言葉だけに囚われるのは悪手だと思う。いままた、自己肯定感が低いのが問題だと定義すれば、「自己肯定感」を高めればいいのか!その方法とは?ってぐぐるとNAVERまとめのページとかが出てきて「方法」が載ってるんだけどそれ試したところでさぁ、「そんなうまい話あるわけがない」ってトポスも私たちは身につけていたはずで、なのにそういう目線も曇ることがあるんですねぇ。要するにものごとを掘り下げて把握しようとすることって大事ですよね、でっそれを実践するのって仕事や生活が忙しかったり年齢を重ねたりしてくると難しくなってくるものですよねっとも思うのだが、ほんとにまっとうにその考えは正しいと思うのだがその一方、「難しい」って言って終止符打っちゃうのもなんだか勿体ないですね。「難しい」って言葉はなにをするための道具なのかな、って考えると、「それは難しい」つって相手の提案をつっぱねるために使われるのが常であり、うー、もっというと「使われる」というよりも「難しい」という言葉を使うことがそういう流れに導いてしまいがちなのであり、だから使うにせよ用心して使わなければならない言葉だなぁ、と思いましたました。「難しい」というのは現状把握が十分にいけてないことの反映でもあるんだろうね。このままじゃとうぶん前に進めない、だから別の道を採ろう、というような。ただ、くだんの事柄を、では宙ぶらりんにしておくべきなのかといえばそれも苦しく、「難しい」としか今のところほかに言いようがないことがら、それでいて「難しい」ととりたてて言っておかねばならぬ、取りあげておくべきことがらというのが存在するのであり、要するに人生はままならぬとまたしても繰り返しているだけなのですけども。しかし、ままならぬのが苦しみならそれを放棄すればよくて、どうして「まま」にしようとするのだろうか。それは他者との関わりがあるからなのだよ。


2016.12.06 (火)

2階立てアパートの2階に住んでるんですけど、帰ってきたら外に干してた洗濯物が物干し竿ごと落ちていたことがわかり大変悲しく、外干しは家にいる土日以外にはすまいと決めた。悲しい。

夜になるにつれ風が強くなることは昨夜のNHKニュースで聞いていた。昼にかけては暖かく秋の気候だが夜になるにつれ気温の低下とともに風も荒れて体感温度は実際よりも5、6度下がるという。そのとおりだった。勤め先を放たれた私は背筋を伸ばして体温の調和をはかり、また感覚をひらき寒さをむしろ能動的に感じることでその攻撃性を矯めようとした。家に近づくにつれ物思いは家のほうへ移り、これだけ風があると洗濯物のひとつやふたつ落ちているかもしれんな、と案じた。そこまでの段階には私の心は実のところ楽天的で、サッカーの試合の結果を予想するかのように当てっこゲームに興じるような心持ちだった。洗濯物を落としたらまた洗濯するはめになる、というようなリアルな想像はなにひとつしなかった。それが、我が部屋のベランダになにも掛かっていない――かといって地面に落ちているわけでもないことを見たとき、ようやく事の重みを悟った。いつか物干し竿ごと落下した洗濯物は顔を知らない誰かによってハンガーや小物干しごと拾い集められ、無造作に紙袋に入れられてわが部屋の前に置かれていたのである。

……だんだん文体がおかしくなってきたのだが、同じことを過去に少なくとも2度したことがあって、だから物干し竿ごと洗濯物を落下させて危険な状況を引き起こしたのも、顔の知らぬ誰かに洗濯物を回収してもらったのも、初めてではなかったのだ。それが悲しかった。洗濯物が落ちる危険があるのは風の強い日だけだが、洗濯物を干すときに毎日そこまで気がまわる自信がないし、その点で対策ができたとしてもまた別の原因で洗濯物を落下させてしまう日が来ないとも限らないと思えた。(これまでも、物干し竿を麻紐で固定するという対策を施していて、それでしばらくは悲劇はなかったのだが。) この件に関しては、試行錯誤を続けるよりもリスクのほうが大きい。そう思って外干しはたまにしかしないことに心を決めた。

洗濯物もおちおち外に干してられない暮らしって貧しい――なんて思ったときがあったのを、いままた思い出した。仕事に行っているうちに雨が降ってしまうかもしれないという事実が私たちの暮らしを限定する。洗濯物に太陽を浴びさせてやるという、ささやかだけどあたりまえの贅沢を、贅沢と呼ばせてしまうこの状況は、どうにもポイズンだ。だけどその代わりに手に入れたものもあるだろうな、と、やはりそのとき同時に思った。あらゆる言説はバランスがとれていなければどこか嘘だ――そんな信条がある。だけど、代わりに手に入れたものってなんだろね。夜のお仕事のおカズに困らないことかな。と、それもそのときの答え。


2016.11.28 (月)

いつまでたってもキーボードを床に置いて書いている日記にようこそ。

仕事で、僕も2年目なんで後輩になにごとかを教える立場に……、立場というとなんだかポジション然(同語反復)としていて、一度そのポジションに据えられればすでにもとの形には還らないかのごときですが、ようは、自分は指示を出して腕組みして、後輩が作業するのをカントクとして横で見ているってな関係性の中に身を置くなどということも入社して1年半を経れば時には生じるのであり、ところでなぜそうして一般的なことがらを、しかしながら多くの有象無象のことがらどもから選び出して語っているのかといえばつまりは今日がそんな日だったから、なのですが、そんなときに初めて気付いたのが、自分が手を動かしてないと人間はこうも不安になるものかと、いや「人間は」というのはその具象レベルに落として言えば「僕は」と言っているのに他ならないわけですが、しかし人間は、その中には僕ももちろん含まれている人間というものは、そう、僕が或る具体的な存在者としてそれを生きてしまっている人間とやらは、自分ががちゃがちゃ手を動かしたという実感がなければ、すなわち働いたという実感ももてないものなのか、それもこれほどまでに、と驚愕さえしたのです。そ、それにしても、文章を書いてみると、いや、とりわけ日記のような、どこまでも自分の思うように書いていい場所で文章をじっくりと書いてみるといつも思うことだけど、一文が長い。これはいつまでたっても直らない。自分の喉をふるわせて話すときに口下手なのもこうしてみると飲み込める。つまり私は考えるのが遅い。そして一つの断定のためにつける留保がとても多い。

まあそれはただ言ってみたくなっただけなんですけど、しかし今日の仕事が終わった直後の、手ごたえのなさ。その、手ごたえのなさには目を開かされた。なんか、やり残したことが無数にあるかのような落ち着かなさ。仕事が終わる直前に上司に電話で報告するとき、別になんも悪いことしてないし、仕事も順調に進んでるのに、いつになく緊張した。むしろ怯えていた。声が震えそうだった。あたかも一日中仕事をさぼり倒して、ひとっつも進んでないのに、「完了しました!順調です」と報告しているかのような気まずさと恐れが、ひとり僕の頭の中を駆け巡っていた。

手を動かしていないと仕事をした気がしないというのは、そうしたザッハリッヒな性格(?)というのは、ものごとに実地に触れることに対する感性のあらわれとして見たとき、或る大事にすべき美徳なのかもしれないが、しかし、まがりなりにも哲学を学んだものが、目先のものしか見ずに、その全体の意味を絶えず把握しようと努めることなしに善悪の判断を下そうとしたり、喜んだり悲しんだりするのは、やはりどうもそれは後退なのではないかという気がした。べつに哲学でなくても、学問というか、一度でも知的であろうと努めた者ならそうあるべきだと思うのだが。。。いや、べつに、時間に追われて視野がぐんぐん狭まっていく生きざまにだって等しく真実はあって、そこを敢えて?生きてやることには知的な意義さえあると言えるのだが、だけど、それはやっぱり狭い知的ゲームにとらわれちゃった考えかなぁという気はつきまとうのよね。それよりは、なにより本人が幸せであるために、そして世界をよりよくしていくために、自分のおかれた位置を絶えず把握しつつ動いていくのが正しいありかただという気はする。まぁ、全体を把握して生きるほうがえらいって言っちゃうと、それもまた、教条主義というか、なんで一方にしか真実はないの?って気がして、それもまた望む結論ではないのだけども。考える集中が切れてきたので今日はおわりにします。


2016.10.23 (日)

むかしむかし、そのブームもほとんど去ってしまった頃にテキストサイトというものを熱心に?ありあまる暇の中で見ていた頃、「彼女ができると日記を書かなくなる」という、なんというか決まり文句のようなものが口ぐちに言われているのを目にし、僕はそれをなんとなく記憶していたものでしたが、今こうして思いを致すと、彼女ができると日記を書かなくなるのはなにもモテるために日記を書いてたから・日記はモテのための手段だったからじゃなくて、単純に忙しくなるからなんだなと実感している昨今なのでございます。LINEの相手しなきゃいけないし(いや、連絡ないならないで寂しいんですが)。デートで行くとこ考えなきゃいけないし。今日はめずらしく夕方に彼女が別用事で帰って行ったので、こうして日記を書いているんでございます。モテるためとうそぶいてテキストを紡ぎ続けたテキストサイトの先人たちは、なんでも正直ベースで語るのを清しとする無邪気なわたしたちから見ると粋だったよね。のろけついでにリアルのことを言えば、最近出張つづきであっちとこっちを行き来する日々で、自炊を再開するに十分な時間的スパンのゆとりがないのがちと悩みですかね。本当はぬか漬けとかやりたいんだけど。彼女との仲のほうは、週1ぐらいで関係存続の危機みたいになって、俺甲斐性ねーって現実を突き付けられたりしてますけど、少しずつでもいろいろなことができるようになりながらなんとか1年ぐらいはもたせたいですよねーとか思ってます。いや今思いました。そのためには読まなきゃいけない本がいろいろある(例:『思いやりの人間関係スキル』)んだけど彼女の相手してると本が読めないという。いや彼女いない時代でもやはり本は読めなかったか。あはは。あと去年の冬ぐらいから性欲がいまいちなんですけど彼女ができてからその問題がいっそう表面化してきた感じです。なんなんだろう。食生活と運動不足は見直してもいいと思う。就職して一人暮らし始めて、一時期食生活がかなり無節操だったからな。いまもそうか。一年ぐらいはもたせたいよねーとか言ってしまったが本当は永遠にもたせたいが、永遠にともに生きるのは不可能なので、だけどもっとたくさん仲良くやっていきたいのはほんとう。


2016.09.28 (水)

おひさしぶりです。最近残業の波が来ていて、昨日は――まぁ、客観的に見て話のネタになるほどではないのですが――10時まで残ったりしていました。出先とかではなく平時でこの時間になるのは初めてだったのもあり、とってもつらかったです。つらい、って不思議なことで、感覚はないんだけど、つらいって言葉がちらちらするというか。言葉とか判断とか、事実とか、そういうソリッドなものだ。つらさというものは。不思議である。肉体的には、いや精神的にさえ、どこも問題はないのに、叫び出したくなったり、泣き出したくなったり、激しく体を掻きたくなったりする。ストレスだ。ストレスとは、体の不調とは位相を異にする――体に表れるものではあれ――ものだ。それを私は、知識としてではなく身体で「知って」いるのだろう、それがブクブクと浮かんでは消える「つらい」には込められているのだろう。

10時前に限界だと感じて、一瞬だけ外に出て彼女とLINEを交わした。すこし楽になった気がして席に戻って、作業を再開したが、やはりつらく、ほどなく体が動かなくなった。わー、人間、無理になると体が動かなくなるのかーと感心しながら、しかしもうすこしだけがんばろうとしてみた。が、やはり、「帰ろう」と突然思い立ち、荒っぽい所作で退勤して、外に停めてある自転車へと走り寄り、大急ぎで帰った。半分ぐらい走れば、落ち着いてはくるのだが。

思ったのが、つらいことを無媒介に「つらい」で受け止めないためにも、経験を文章にして――言葉にしてというより、じっくり反省してみるために――いくのは大事だな、と思った。それは事実をナナメから見ることというより、もっとポジティブに思いたい。むかしむかし、反省を介さずに世界を経験すること、メタではなく徹底的にオブジェクトレベルに生きることに理想をみた時代があった。確かに、そこではつらいものは間違いなくつらい。しかし、別にすがすがしいものではない。泥臭い。文字通りに泥臭い。それはまじりっけなしのつらさではなく、オブジェクトレベルの生には、どろんこの夾雑物がいっぱい含まれているっていう、あたりまえのことだ。見方を工夫して上手に生きる、というほうに、いまは魅力を感じている。結局、今の自分にないものをいつも求めてしまうだけともいえるけど。


2016.07.21 (木)

好きな人とLINEでチャットをしながら、言葉になにかを意味させるって難しいんだなあと実感する今日この頃。言葉には「こう読んでくれよな」っていう発し手の願いが宿っていて、でもその願いは受け手には見えないんだよね。われわれの実情としては、その願いまで見えるように、言葉の中に仕込んどかなきゃならない。「こう読んでくれよな」が見え隠れする発言を、私は人生のある時期にTwitterでよく見かけていたが、そうしたものが、明示的に申し開きをしない言葉が「通じ」たり、少なくとも混乱やいざこざを起こしはしなかったりしたのは、そこでの発し手や受け手が同じコードのもとで話していたから、あらかじめ共有された文脈の中で、ほとんど固定された目的の中で言葉を交わしていたからなのかなと思いあたった。私と彼女はもっと開かれた話をしている、ということになるんだろうか?

自分の哲学に対する向き合い方を、どう自覚すればよいのか、ずいぶん前からわからないんだけど、わたしは、哲学的な問題に関心があるという以前に、哲学について語ったり哲学を踏まえて何かを語ったりするある人々の文章から感じ取れる“知性”にあこがれて、そのへんの世界に入っていったって事情が、ぼんやりとながら確かにあった。だから、いくら哲学的な思考の楽しみなんていったって、僕にはほんとにはピンと来ていないのだから、人に哲学の話をするときにそこから入るのは欺瞞なんではないかという気がした。


2016.07.18 (月)

考えたことや思いついたことを話す相手が欲しかったんだな、って気付く。頭の中に僕の周りの人たちの分身を飼っていて、買い物の帰りや、仕事場への道や、寝る前なんかに、彼・彼女らに対して話している自分に気付く。

プールに泳ぎに行った。運動すると悩みがすべて消える!運動最強!とまでは言わないけど、運動した後って考え方もいくらか前向きになって「好きな人と離れるのが怖い」から「会えるうちにめいっぱい楽しんでおこう」に切り替えられたり…‥、ざっくりとつかんで言えば、心と体のバランスが取れるかのような心地がして、運動大事、遅滞なくしておくべきことなんだなという認識は深められました。散歩やカラオケよりも体を大きく使う、ある程度の「おもいっきりさ」が必要なんだなと思った。体力を消費するだけではなく、体のいろんな部分を「使う」ということ。


2016.07.17 (日)

みなさん連休楽しんでますか。僕は深い深い連休にもがいています。連休がないみなさんもこんにちは。私は日記を書いています。自分の日記を読んでももうなんにも感じないなという精神状態になって(精神状態と書くと悪い状態のほうにスポットが当たるのはなぜでしょうね)、その流れで「もう日記書くしかないな」って判断になるのはとてもへんな感じですが、今日の私はとてもへんな感じなんだ。そしてまた、それは、恋愛の話なんだなぁ。わたし、この日記で恋愛のことばかり書いている気がする。昨日は好きな人と会う日で、はっきりと好きだと告げたことはないんだけど好きな人としか言いようがなくて、しかし「生きる意味」とかをその人にかなりの部分預けてしまっているのが我ながらあやうくて、好きというよりも大事な人と言ったほうがしっくりきてしまうのは否めなくて、あまり健全じゃないんだろうなぁと意識しながらも、僕から見てそんな関係の人です。そんな人がいます。相手から見てどうなのかはよくわかりません。思いは複雑です。たとえば将来一緒に暮らすとなると、と、考えます。好きな人がいるときは、まぁいつもそうなんですが、ちかごろの想像はそれまでよりリアルさが増しており、つまり誰かと暮らすことの難しさについて思いを馳せる回数が増えました。自分の不完全さをある種売りものにできるこの日記のような場では問題になりませんが、その未熟さがたとえば家族を傷つける方向に作用してしまうことが、ないなんて絶対言い切れない。そんなことを考えます。口調切り替えよう。ようするに僕は夫とか父親としてりっぱにやっていく自信があるかと考えると、冷静にみて「怪しいだろう」と答えるべきだと思うんです。人を傷つけるのは嫌だなー。でも好きな人とは離れたくない。なんだかすごくとっ散らかった話になってきた。好きな人とは離れたくないんですが、その人は就職したら地域が離れてしまうかもしれないと聞かされて、単純に行かないでほしいなーと思ったけど、でもそれはその人の人生だからそこに首を突っ込みたくないし、それぞれの人に人生があってその人の人生はその人のものだってどういうことなのかなって改めて考えてみるとよく分からないけれど、でも自分の人生のことは僕よりも本人のほうがよく見えてるはずで、引きとめるのもなんだか違うなと思ってあー、人生だなー、出会いがあれば別れがあるんだなー、そうそうどんなに長く寄り添っていてもいつかは別れる、人間いつかは死ぬ、そうそう人間いつかは死ぬんだよな、と思い出して、私は私で生きられるようにしよう、って結論出して、クーラーのついた明るい部屋で一人で寝そべってました。昨日はその好きな人といつになく近い距離になって(物理的に)、なんかとても不思議な気分、近づき切れないもどかしさもありつつ安心のようなものさえあった、だらだらとして気持ちはよかった不思議な感じだったのですが、昨日すごーく近かったので今日は一人になってその差でくらくらしているのかもしれません。頭がおかしくなりそうです。なにもおかしなことはないのになにも感じないままおかしなことをしでかしそうです。さみしいのかなぁ。自分の気持ちを感じるってこと。自分の気持ちを人に表現すること。


2016.07.08 (金)

会社を出てすぐに缶ビールを開けて、歩きながら飲んでしまった。空きっ腹に酒は毒、と、大学生のはじめの頃に自覚したが、意識せずその教えを守り続けてきたんだなぁと気付いた。缶ビール一本で、気持ち悪さが遠くに見えた。コンビニでチキンとコーヒーを買って、駅のベンチで食べ、そのまま電車に乗った。缶ビール一本だけだが週末気分も手伝ってもうとっくにほろ酔いで、乗り換え駅のホームで「このままふらりと電車に飛び込むのも悪くないかなぁ」と不意に思ったりした。ほんの、ぶらりと立ち寄る具合で思っただけなのだが、今週はすこしだけ疲れがたまっていたので、そこに一片の真実もない完全なる法螺だと強弁する気でもなかった。考えは続く。「でも、このタイミングで死んだら、『仕事を苦にして……』とかって解釈されちゃうんだろうか。それも嫌だなぁ」。大きなミスをしたとか、残業続きとかといったことは別にないのだが、会社でめずらしく最後まで残った日があったりしたので、主観的にはそんなふうに考える余地がないではなかった。それで、問題にしたいのは、これに続けてこう考える余地があったということだ。「でも、死んでしまった後なら自分がどういう評価を受けようが関係なくない?」。自分でも使ったことのある理屈だ。だけどへんな気がする。「それも嫌だなぁ」と思うこと自体が誤りだと言っているわけだ。まぁでも、感情を否定するにせよ、その感情が事実誤認に基づいていることを指摘することを通じてその感情の不当さを主張するのは問題ない。だけど問題はその指摘が妥当かどうかだ。まず確認しておきたいのは、「嫌だなぁ」と思っているのは死んでしまった後の自分ではなく今の自分だ、ということだ。つまり、「死んでしまった後には感情はないから、死後の感情に言及しそれに依拠する主張はナンセンスである」という意味に先の批判を受け取るなら、それは的外れだということになる。なので別の、より正確な解釈を考えてみたい。「自分の死後のことがらについて思いを巡らすことで心を動かすのはナンセンスである」と読めば、私のぼんやりとした物思いに対する正当な批判となりうる。しかしこの解釈は一つ前のものよりは自明でない。その根拠を求めれば、「人はみずからの死後の出来事に一切関与しないのだから、そのことについて悩むのはナンセンスである」といった具合になるだろう。となると、「人はみずからの死後の出来事に関与しない」とはどのようなことか、がまずは問題となる。それにはさまざまな解釈がありうる……(飽きた)。

突如として飽きてしまったのは、ここから自分の話をいったん離れてすごく広い範囲について考察を済ませなきゃいけないんだな、ってことを予感してしまったからです。そして実際のところ、「人はみずからの死後の出来事に関与しない」というここでの主張も、何か特定の解釈のもとでの意味を担っているわけではなく、なんかいろんな「人はみずからの死後の出来事に関与しない」事例がないまぜになって互いに区別がつかないような状態になったものとして使われているように思う。つまり、それってどういう意味?って尋ねたら、たとえば・・・と言いつつ、タイミングによっていろんな事例が出てくると思うんですね。特定の事例を念頭に置いてるわけではない。「手を離したらものは落ちる」という主張(まぁ定義上は)と同類だと思う。個人的に興味深かったのは、「それってどういう意味?」と問うだけでは話が進まない場面がある、ってあたりまえのことで、でも、ではこういう一般的すぎる前提を持ち出されたときに私たちができることって、それを正しいものと見なして受け入れるか、その主張をあらゆる角度から見直して粗を見つけるか、どちらかなんだろうか。概念分析は反例を見つけることに尽きるなんてことはないと思うけど、分析の中である主張の解釈が細分化されてきたとして、そうしたところでいまの「人はみずからの死後の出来事に関与しない」は特定の文脈を念頭に置いて言われたのではないのだから、いずれかの解釈を当てはめることもできず、結局当の主張の妥当性を検める役には立たないんじゃないか、という絶望感がある。いや、実際に分析に取り掛かってみれば違うものも見えてくるのかなあ。

(翌日つづき)正しいように見えるが、どこか引っかかるところもあって、でも一般的すぎるゆえに直接反論を与えるのが難しい論拠が出されたときに私たちがまずできるのは、「Aだとも言えるけど、Aでないとも言えるよね」と続けることだと思う。みずからの死後の出来事に人は関与しえないというのは一理ある。しかし、みずからの死後の出来事に人はげんに関与している、とも言えるよね——こう続けてみるのだ。たとえば遺言というものがあるのはその証拠だ。「死んでからも名を残したい」という考えの表明にある種の説得力を感じるのもその証拠といえる。ここで強調したいのは、ある主張について「正しい」と思えることは、それと反対の主張について「正しい」と思える余地を排除するものではないということだ。つまり「正しい」という言葉の使用は、多くの場面ではそうした弾力性を含んでいる。(あるいは、主張の「反対」ということで指し示されているものが、厳密に論理的な否定になってはいないという事情もあるのかもしれないが、その点について今は追及しない。)……とにかく、ある論拠の妥当性を判断するときに、その論拠そのものに矛盾や事実との相違があるかどうかチェックするという方針とともに、その論拠とは逆のことが言えないかどうかチェックしてみるという方針もあるなということが、私にとって一つの解毒剤になるかなと思いました。納得できないうちに相手の言い分を通してしまう、という事態を起こさないためにそれは大切。


2016.07.03 (日)

暑いですね。仕事にも一人暮らしにもだいぶ慣れてはきて、慣れてきたなということさらな意識を伴わないほど慣れてはきたのですが、言いたいことが言葉にならない日々はいまも変わらず、です。……エアコン点けよう。今は温度計を部屋にぶら下げていて、室温が 30 度を超えたらエアコンを点けてもいい、と取り決めるのは悪くないな、といま思いついた。そこで、こういうときに、「悪くない」以上の中身をもった言葉でその判断を確定したいな、という緊張に襲われるわけです。たとえばね。取り決めるのは効率的だ、とか、みずからを救ってくれる、とか。なんですがそこまで言葉を探しに行くためには 10 秒程度の沈黙が必要で、なので会話の中でそれを実行しようとすればものすごく黙りがちな自分ができてしまうわけですよ。そしてくだけた会話であるほどそれが生じる割合は高まる。自分の考えとか趣味とか、自分のことを聞かれる割合が高まるからだ。もちろん他の要因もあるけどね(店がうるさくて大きな声=自信ありげな声を出さなきゃいけないとか)。

昨日の夜、掃除して夕飯食べて、座イスに掛けて動けなくなってしまって、……積極的にやりたいことがなくなるとこうなる。そんなものがなくても人は動けるんだよという知恵も、かけら程度に縮こまっていて、何かとてもいいものが視界にないと動きたくないという気持ちがあって、そんなものなくても動けるって言われてもそもそも別に動きたくていま考えてるわけではないし、と、理屈をどんどん先回りしてつぶしてしまって、電灯のついた部屋がとても白かった。学生の頃と違って、憂鬱さ、とか、とんとご無沙汰だなあと思っていたが、休日となるとけっこうわりと頻繁にお見掛けしているのかもしれない。昼に買い忘れたものに気付いて、自転車に空気を入れてとりあえずドラッグストアへ向かった。要はすこし寂しかったようで、陽がすっかり落ちて黒い世界の中で人工物だけがくっきり浮かび上がる世界の中ですべっていく私が、ほんのすこし泣きたい気持がふんわりと降りていた。そんな、よくある体験。

生きていく中で私はそれを言葉にするよりずっと豊かに、ずっと正確にそれを体験してしまっている、そんなことを家に還りつく手前で思った。けど、なんらかの仕方でいま私はその体験を言葉にしているのも事実で、しかもいくらかの正確さをもってそれを言葉にできているという自覚まである。いや、もうすこし慎重に言えば、そのとき感じたことを、そのときの体験そのものを、言葉でもってあますところなく記述するのは不可能だ、というように感じる。それは「体験そのもの」を「記述する」という概念同士の矛盾に起因しているかもしれない。言葉はいつも体験そのものからその一部を切り出して、加工して利用するしかない。そんな事情があるのかもしれない。(こうした話題については、『純粋理性批判』なんかきちんと読んでれば、こんな奥歯にものの挟まった語り口にはならずに済んだのにな、と不勉強を悔やむ気持ちがある。)いまこうして頭で考えて、体験をまるごと言葉にするのは不可能だな、と大きな壁を感じているのと表裏一体の関係で、体験しているその場においても、いま感じているこの豊かさを言葉にするのは不可能だろう、という気持ちに襲われてもいた。わからない。いま言った通りのことなのかもしれない。体験そのものを記述し切ることは不可能だ、という理論的判断が、体験のただ中と、体験を振り返る記憶の中で、別個に起こっただけかもしれない。ただ、(いくらかの不正確さをもって、ではあれ)その体験について事後的に何らかのことが書けて、言えてしまった、という事実は直視しておくべきなのだと思われる。実際に、体験のただ中で言葉として出てきた「豊かさ」が何なのかはほとんどまったく自覚できていなかったし、同時に、事後的に思い出す中で、体験をどう記述したら「正確」に「あますところない」ものになるのか、さっぱり見当もついていなかったのだ。なのに、体験を記述することは究極のところで挫折する運命にある、という確信も、両立している。という事実を。

もうすこし個別的な話として、自分が言葉でもって何かを語るのを難しくしている(あるいはひどくのろまなものにしている)要因についてひとつ気付いたので書いておく。自転車用レーンが右側に設置されている道に入って、おや変だなと思ったことがあった。すこし観察してみると、自分が入ったのとは逆側から入れば自転車用レーンは左側に来ることになるわけで、設計者が右と左を間違えたわけではないことが見て取れた。で、とっさにそれを言葉にするときに、「自分が入る側」と「自分が出る側」をどう呼べばいいものか途方に暮れたのだ。その道の両端は、自分が入る側と自分が出る側の対になっていることは確かだった。しかしそれって今の状況に置かれた自分から見てそうだ、というだけであって、つまり客観的な仕方で道の両端を呼び分ける言葉が欲しかったのだが……、それを追求すれば、地図を確認した上で「西側」「東側」とでもするほかはない。けど、そのときは、「こっち側」と「あっち側」をより端的に指示する A と B に当てはまるなんらかの単語がある気がして、そいつを求めて暗闇の中を探してしまったのだ。なるべく特定的な言葉を使おうとする思考上の癖があるみたいだ。だけど多くの場面では、状況依存的な表現で事足りてしまう、ということにも気付き始めている。むしろ、情報伝達に長けている人は、置かれている状況とか、相手がどこまでのことを了解しているかとか、そうした文脈を上手に利用するものだと言えるかもしれない。


2016.06.28 (火)

早くに帰宅できたので日記を書きますよ。気付いたら今月はまだ書いておらず、いや「書く」という行為は生じていたんだけど中断されたのが二回ほどあって、中断されたやつを継続する気はないのであった。帰宅して、時間できたからあーゲームしたいなーと思ったけど、それって自分が遊びのためにすることの選択肢をもってないからなんじゃないかなーと思った。楽しめて、なるべく有意義じゃないやつ。ゲームだってどこかで或る有意義さを帯びてしまう(あるいは見つけてしまう)には違いないんだけど、つまり、その、意義ということから開放されたひとときが欲しいんだろうか。無意義なことは一筋たりともしたくない、生活を進歩で埋め尽くしたいと考えていた時期もあったが、今はそうでもない。生活のビジョンがない。どうやって生きていたいかがなくて、もっともっと場当たり的だ。

特に何も思いつかないので、「暇だから本でも読むか」になっちゃうだろうな。


2016.05.28 (土)

部屋の掃き掃除と、トイレ掃除と、風呂の排水溝掃除をした。休日ふらふらと出て遊んでみても、家でゆっくりと好きなことをして過ごしても、どこか心が休まらないことがあるが、休日に掃除をしている自分は手応えを感じている、充実している。「自分がほんとうにやりたいこと」を未だ見つけられていないから、よけいにそう思うのかもしれないが、確かに掃除は裏切らない。それはひとつには、昨今流行りの語り口で言うならば、成果をその場で実感できるから、でもあるのだろうが、もっと素直に、目で見えてさわれるものっていいもんだな、ということを言っておきたい。また、自分がすべきことをしているという感じも掃除は与えてくれる。人間にはひとりひとり使命があって、社会のなかでそれを果たしていくことが自己実現なんだという思いを、私もまたぼんやりと、しかし強固にいだいている。でもその一方で、自分の身の周りをきちんとすることもまた、人間が「するべきこと」の一環なのだ。掃除はそのことに気付かせてくれる。それは、いくら世の中で活躍していても私生活がだらしなくては魅力も半減するね、というような勘定の話ではなくて、私生活をきちんとすることが世間で活躍できる人間をつくる基礎だ、という戦略の話もあるいはあるかもしれないが、両者を対立させて語ることにポイントはなくて、人間がすべきことってのはそこにもあるし、ここにもあるよって仕方で世界を把握していたい。


2016.05.27 (金)

ハロー。楡です。私もまた LINE というツールを使う機会があって、ときおり数人の知り合いや家族とやりとりするのですけども……、もうすこしはっきりと言えば自分が好意をもっている女の子と言葉を交わす機会があって、そうなってみると自分でも意外なほど軽いノリの会話を演じていることに気付いたりするわけだ(いや、チャラいとかじゃなくて、親しげな感じを出してですね……あ、同じことか?)。それは、相手がその人だから特別にそうだという話ではなくて、職場の一人の同僚相手でも同じように言える話で、つまり、考えてみればいにしえのチャットルームの時代からそうなのだけども、短文で気軽さが是とされていて、情報とは流れていくもので、しかも相手の顔が見えない状態で、というのが、人の言葉を最も気軽にさせるんだなあという、これは単に行きがかり上触れてみたくなっただけですが、そうなると一定のまとまりをもった文章を書くってことの独特さがますます際立ってくるよなあと、そんなことも思うんですよね。と書いてみて、なんだか昔っからそんなことばかり書いてる気がしてきたし、昔っからそんなことばかり書いてきたみたいなことも散々書いてきた気がいたしますが、やっぱり書いていきたいと思うので書かせていただきますが、 LINE を使ってより気軽にコンタクトをとることが可能になったのは、ひとつやはり何かを可能にしたんだなあと認めずにはいられないし私はそれを最大限有効に利用する気持ちがあるのですが、俺の文章ってこんなにまわりくどいやつだったっけ。まわりくどいやつだった。こういうまわりくどいやつを書く機会が失われ続けているのですよ。書くどころか、いや、つまり、まわりくどさとは言葉に宿るものであって、まわりくどいものに触れようと思ったらまわりくどいものを書くか、話すか、聞くか、読むかするしかないわけですよ。そしてまわりくどいことを話すのは嫌がられるので、いや仮に嫌がられていないとしても話してる自分が「ぜーったい嫌がられてるだろうなあ」という思いにとらわれてすぐに話せなくなると思うので、ありえないし、まわりくどい話を聞くのは眠くなってしまうし、いやー自分の意見を消去法で固めるのが上等な語り方でないのはわかってはいますが、続けると、最後まわりくどいことを書いて読ませてくれる人はあまりいないので(だって普通好まれないもんねぇ)、なにか思い立って人間の生につきまとうまわりくどさに触れようと思ったら自分で文章を書くしかねぇのですよ。それに、人間の生になどと言ったが、要するにそれは自分の生であって、ああっ俺ってこんなにまわりくどいんだ!って気づくこと自身が財産でしょ。つまり一般的な話をしているようでいてこの文章は書き手の特殊事情について言ってるんだってことがわかってきましたが、簡潔なコミュニケーションが好まれる昨今、いや、頭のいい人はコミュニケーションが正確ゆえに簡潔でもあり、それに下手に倣おうとすればわたしのコミュゥニィケイションも「簡潔」になってきて、まあそれでなくても口数の少ない男ですが、それが LINE (とか Twitter とかチャット)だとしゃべるから面白いよね。じゃなくて。とにかくいろんな意味で自分のコアな部分を確保していてくれるのが文章という場なのかなーってかんじのことを感じていて、もちろんいろいろな手段は相補的であってわたしは LINE とかもどんどん活用していく所存なのですけども(さっき言った)、相手の言葉に随時反応して流れに加担しつつ乗りこなすような場と、一人でぐつぐつ納得できるまで考えたものを後出しで出せる場とでは出てくるものが違うのがあたりまえで、それはあたりまえですね。ちがうんだよ。対話型で往復スパンの短かいコミュニケーションでは「主題」が場を支配するんだけど、時間や分量においてある程度の自由度がもたせられてる媒体(メールとか……)では、もっとヘンなとこに突っ込む余裕がでてくる。というかそういう「もっとヘンなとこ」、主題としてとりたてられにくい事柄こそが私や私たちにとって重要であったりしない保証はないのだから、表向きな「主題」を信じて取り組んでしまうお人好しな僕なんかはもっと自由度の高い媒体も上手に併用していくべきではないか?って感じのことを思っている。いや、二つのものを比べてどちらかが絶対的に優れているという結論ではないから「併用していく」のは当然なんだけどさぁ、あたりまえじゃん、こう、なので、たまに書く日記がこんなふうにまわりくど過ぎるものにならないためにも、いろいろな形でアウトプットはしていきたいですよね。おわり。


2016.05.07 (土)

昔話、かつ粗雑な話なのですが、僕がネットを通じて分析哲学というものを知った頃は、分析哲学といえばクワインの「信念の網の目」とか、それに対するデイヴィドソンの概念枠という考えそのもの〜とか、もちろん「語りえぬものには〜」もありつつ、ラッセル=ホワイトヘッドの『プリンキピア』(数学は論理学ですべて記述できる!)も含みつつ、まぁそのあたりのものがぱっと思い浮んでいました。そのため、分析哲学は理数系のセンスある人達がやる、破壊的かつ魅力的なアイデアに満ちた分野、というイメージだったんですけど、最近のネット(というかツイッター)見てると分析哲学は破壊的どころか堅実さを売りにしているほどで、まぁなんかイメージって数年のうちにコロっと変わっちゃうよなあと思うのでした。おわり。


2016.05.05 (木)

ゴールデンウィークでドカンと休みがとれたので旅行に出てきたんですけど、旅中で繰り返し感じたのがほんとのよいこととはなんなのです(かせきさいだぁ≡)ということでした。自分がなにをしたいのかわからない。あぁん。旅行、したかったことの一つには間違いないのです。どっか遠いところへ出掛けたいと願いながら、もう半年以上暮らしてきましたから。でもそれって「やりたいこと」が定められてるというよりも、大きな息抜きがしたかったという意味のものに違いなかったのですね。旅行来てやりたいことが特別あったわけじゃ……、なかった。でも旅行に来れば何かをせざるを得なくて、それは旅行に出ずに家でボーっと過ごしてるときもやはり何かをせざるを得ないのと同等の意味でそうなのですが、そうなってくると自分別にやりたいことないなーって事実が重圧となってきたりもするわけです。ふーむ。やりたいことがない人にとってこの世は生きづらい。この世は、というか、都会的な暮らしは、かな。まぁいいんだけど「ほんとのよいこととはなんなのです」で、青空に向けてそう問うてみたときに答えてほしいのは世間の役に立つために僕ができることは……!って話ではなく、そもそも俺という一個の存在は何を為すことを許されているのかみたいなコトですよね。たぶん。そういう、より哲学的(と言ってしまおう)な悩みは、実際のところ、ある意味お手軽に人の役に立つ実践に取り組むことで解消されたりもするのでしょうけど。問題の解消と問題の解決とは異なっていて、前者ができたからといって後者が達成されたと思うのはシンプルに論理的錯誤でしかないですけど、でも理屈の領域にだけとどまっているのが偉いわけでもないしー、みたいなー。つまり、どっちも大事!と言っておけばとりあえずは済む問題なのですが。ともかく仕事とか離れてこうして一人で「やることない」状態になってから浮かびあがってくるしょうもないことがら、というのはあって、それが「しょうもないことがら」であるのは特定の視座を特権的なものと見たときのハナシだよ、というのも承知しておくべきですけど、そう言ってみたときにじゃあ悩みの解消を目指すようなせっかちな態度は低劣で、哲学的に悩みを深める態度のほうが高尚なんだな!?みたいな余韻が響いてしまうのがやっかいなんだな、と思う。余談ですけど「高尚」ってことばは対象を理解していないときに使うくせに対象を貶める効果があってなかなか狡猾ですよね。その価値もしょせんは一つの視座にすぎないと指摘するとき、僕はきっと何かを貶めたいのではないし、かといってすべての視座を取り払ったまっさらな世界こそがほんとうの世界なのだと言いたいわけでも、別にない気がする。ようは青いものを見て青いと言う気持ちに限りなく近いと言いたい気持ちでいっぱいなのですが、それこそがいっさいの視座のないまっさらな世界に身を置いてることをオマエ前提としているよなあ?と問われれば否定しようもない。そうやってごちゃごちゃ考えてきてしまうと、それって哲学の問題だなと気付かざるをえなくて、無理しなくても哲学にかかわってしまうんだなとある種安心したりもする一方、仕事や日々の暮らしに追われていればそんな悩みが発生する余地も小さくなるのもわかっていて、年をとるにつれ哲学からは遠ざかっていくというのはそういう意味なんだろう。


2016.04.25 (月)

帰りに自転車走らせながら、小さな虫がものすごくたくさん顔にぶつかってきて難儀した。1分に1回ぐらい当たってきたぞ。これは何かが起こってるぞと思いました。ある変動が。それともいつもより1時間早く退勤したからか。いつもより1時間早く上がって、まだ暮れ切っていない道を自転車で駆け抜けていたら、知らない家庭の夕飯の匂いがたくさん鼻に入った。


2016.04.24 (日)

10時まで寝てたから条件が整ってるという意味で不思議はないんだけど、1日頭が痛かった。気圧のせい、ということにしているが、別に天気が悪くても平気な日はいくらでもあるし、休日なのが関係しているのかしらん。ほんとは大した根拠などないし、そう説明したところで何か或る恩恵を受けられるわけでもないんだけど、気圧のせいって言ってみたいだけ。


2016.04.23 (土)

休日なのにめずらしく8時前に起きた。前日早く寝たわけでもなく、めずらしくテレビめがけてタモリ倶楽部とぷっすまを見てたのでむしろ遅かったくらいなのだが、まー寝た時刻と起きる時刻ってそれ自身ではあまり関係ないなーって確信は日々深まるばかりなのですが。実際に眠ってるかどうかというより、寝足りないと自分が思ってるかどうかが寝起きには関係しているよね。朝食摂ってちょっとだらだらして、ムーンライダーズとか森高千里とか流して、まただらだらしてから毎週のおつとめとして近所のカラオケ屋に赴いたら開店ちょっと前で、本屋で軽く暇つぶししてトイレ行って漫画を買って、それから2時間歌った。なんか一日の早い段階にカラオケ入れるのって早くも一日を消耗しにかかっているかのようで、どうかなというか帰宅したらだるくてちょっと熱っぽい一幕があった。帰宅する前にここいちばんや(変換できない)でカレーを食べて、この店舗はオタクというかマンガとゲームが好きなひとたちが目立つようだ。そういう人たちを私は少しだけ見下しているようだ。でも見下している場合でもないんじゃ。しかし読書は遅々遅々として遅々進まないのであった。それから自転車の雨避けカバーを買った。ここ何ヶ月か、その自転車屋さんに空気を入れてもらいに立ち寄ろうとするのだが、なんだかいつも忙しそうで手がふさがっている風だったので遠慮していたのだが、今日はカバー買ったついでに作業に割り込みで空気入れてもらった。というかいつも割り込んで入れてもらえばいいのに。割り込むのがこわい。そこにある秩序を壊したくないというかさ。こわいと言えば私は絵を描くのもこわいです。それは時間がかかるからで、そして一度描き始めたらある程度完成させるまで終わりたくないし、そうしたまとまった専念の時間におのれを投げ込むことがこわいという私の文章をかなり読んでる人にはおなじみのテーマです。なにかに専念しているとその間に他のことができなくなるのがこわい。実際はできるんだが、というか、他の重要なことが割り込んできたらそっちに切り替えるし、それまでやってたことがそれで半端になっても実はショックはないし、はぁー、私はすべての見通しが事前についていなければ動きたくないんだよなぁ。でなんで絵の話したかというと夕食の買い物の際にブックオフに寄って『ザ・森高』を入手して家で流したときに、音楽流してるときって勉強するには気が散っちゃうので絵を描いて過ごしたりするんですがたまにしかやらないもんだからそういうときに「絵って……」という内省モードが発動したりもするわけなんですよね。小学生の頃までは絵もすこしは描いてたんだけどねぇ、時間の使い方がどんどん小間切れになっちまってねぇ……。

日記書き終わって水汲みに行ってるときに思い出したんですけど、今日は夕飯の買い物に行ってるときに自分が何を買おうとしてるのか同時に1個しか頭の中に保っておくことができなくてひどくちゃらんぽらんだったことと、料金振込と掃き掃除と風呂掃除と調理場掃除をまとめて実施したことも記しておこう。


2016.04.18 (月)

今日はフードコートで夕食を摂ったんだけども、なんで普通の店ではなくてこういうのを選ぶんだろうと考えたら、私はお客さんになりたくないんだな、って思った。一人ずつの存在として認知されるのがいやで、「あなた」をターゲットにしてもてなされるとなんだか気まずい。むしろ、大きな流れの中の無個性な一粒として処理されていたい。工場みたいに規格化されていて、仕組みの中を動く一粒の素子として、わざわざシステムに反逆しない限りほっといてくれるフードコートは、まぁ、気楽なのだった。でもちょっとトッピングしたカレーを頼んだだけなのに 800 円を超えたのは考えものだ。


2016.04.13 (水)

今日は帰りに牛丼が食べたくなって、でもアパートの近くの松屋はちかごろ盛り方がケチ臭いから、もういやな思いはしたくないし、かといって乗り換え地点の駅前の吉野家は不潔だし、しかしながら牛丼だけのために一駅とか乗り継いでまた戻ってくるのも酔狂な気がして、結局最寄り駅まで来て降りてしまって気がついたら駅前のこじんまりとした洋食屋に入ってメキシカンライスを頼んでいた。スープとサラダがついてくる。ここしばらく外食に対する期待が失われていたんだけど、ここの料理はどこをとっても配慮がゆきとどいていて、派手さこそないんだけどバランスにすぐれた、これこそプロの腕だなと感じられるいい体験をした。バランスっつうと均一にならされたような印象も受けるけど、もちろんそういう意味ではなくて、それぞれの要素がお互いを補いあっているわけだ……私が批評めいたことを書いてもしらじらしいだけだと思うので、このへんで切り上げておく。いい店というのはあるものだ。繰り返しになってしまうけれど、まがりなりにも料理を始めたおかげで、食べ物に対する評価の仕方はだいぶ変わった。もちろん(残酷なことに/安心できることに)そこにも功罪両方あるんだけど、しかし視座がひとつ増えることには変わりないんで、喜んでいいことなのだと思う。


2016.04.12 (火)

そして連絡を取り直すの巻。つーか1日待つのくだりいらない。いらないいらない。結局なにごともなかったがなにごとかがあったかのような痕が残ってしまった。一人で経験値を稼いでしまった。朝、カフェにでも立ち寄るかのような手軽さで、あきらめと未練と妙な無敵感のある時間を手ぶらで過ごした。決着がつく前、つらいなーつらいなーと思っている時間があって、感情とか感覚ではないんだけども、確かにつらみのようなものがあった。Twitterの人がよくいっている(いた?)あれだ。それは言葉が作り出す幻想なのか。怒りとかさみしさとかとは違うし(身体の変化が伴わないから?)、くすぐったさや暑さのような明証性もない。憂鬱と同種のものかもしれん。奴は確かにそこにいるけど、正体をつかもうとすると逃げてしまう。そういうモノを端的に「ある」と称するのは、どこかそぐわない感じもするのだけど、幻想だと切り捨てるのも明らかに語弊があって、まあ、よくわかんないなと。そういうことを考えた。それを日記の糧にする僕。まちがってる。人生の目的は洞察ではない。個人の生き方として、もっぱら解決だけを問題にする態度は疑ってもいいけど、そのときすべきは事態をよく見極めることであって、与えられた状況によってたかって引き出しうるものなんでも吐かせることではない。

今日は2時ごろにもうれつな眠気に襲われ、コンティニューを連打して現実に復帰するのでせいいっぱいだった。ああいうときどうしたらいいかほんにわからん。


2016.04.11 (月)

なんでも一人で感じることに慣れてしまって、さみしささえ。

ほんで、その洞察が無効になってしまう前にと急いでアップロードする私。卑しい。


2016.04.10 (日)

今日はぐずぐずだったな。「何をしたか」だけ取り出せば、植物園に足を運び、電車を乗り継ぎ、コーヒーを飲んで、カラオケをして、ごはん食べて帰ってきたという、それなりに健全な休日を過ごせたように見えるんだけど、いや過ごせたんだけど、その途中途中で携帯を見る頻度が高すぎた。ときどき連絡をとってる人に恒例の連絡を取ろうとしたらPostmasterに突き返されて、調べてみるとその550エラーというのは宛先のメールアドレスが存在しないときのエラーコードらしく、おっと……と思ったわけなんですね。ここで考えられる原因はさしあたり二つあるんだが、二つ目の可能性のほうがつい大きく見えてしまって、いらぬ勘繰りを膨らましてしまう。ほんとは選択肢をひとつに絞る方法がひとつあるんだけども、メールサーバの不具合とかかもしれないからとりあえず明日まで待とう、となんだか早い段階で決めてしまってその方法は試していない。そういうとこがだめなんだと思う。仕事ができないんだと思う。問題を解決することよりも優先してしまうなにごとかが、私には多すぎる。その、言ってしまえば、センチメンタルな気分に浸っていたいだけなのかもしれない。いや必ずしもそうではないのだが、事実上そうとしか言えないのかもしれない。言い訳ができない。

まぁふだんぼんやり構えているわりにはこういうときのあわてぶりは滑稽だなと思うのであった。ところで夜はラーメン二郎を食べました。人生二回目。一度目は、3年近く前か。Twilogって便利ね。そのときは大雨で帰れなくて(電車がのろのろとしか動かないかなにかで)、途中下車でカラオケ屋で森高千里とか歌って、遅くなったしお腹も空いてるから二郎でも食べてみっかーって携帯で場所調べて行ったんだよな。うん、移動経路考えるとエピソードの順序がおかしいので違うかもしれない。当時感じたのは味の強烈な濃さと量の多さ、そして食べた直後の後悔と、すこし経ってから芽生える「また行ってみたい」という意識、だった。今回行ったのはそのときと違う店舗だけども、印象深かったのは、味よりも麺の噛み応えと野菜(キャベツ、モヤシ)の物量感だったな。ジャンクというのとも違う粗野さの趣向を感じた。量は、入る前に携帯で手順調べたにもかかわらず「麺半分で」を言いそびれて、そういう点にも今日のぐずぐずさは映し出されているんだが、結果として普通の「小」になって、つまり通常のラーメンの2倍くらいの量だったんだけど、……話長くなってきたな。とにかく今回は満腹に苦しむことなく食べ切れた。空腹感も満腹感もにぶくなっているかもしれない。リピートしたい気持ちは今回芽生えなくて、外食一般に対する期待度がなんか一人暮らし始めてから低い。味つけの仕組みがある程度わかってしまうからなのか。飽食のせいか。


2016.04.05 (火)

なにかをアイデンティティにすること自体は恥ずかしいことじゃないはずで、だとするとアイデンティティにするのが恥ずかしいことと、堂々とアイデンティティにしていいことの二種類がこの世にはあることになるが、それは正しいのだろうか。そもそも——何かをアイデンティティにすることそのものが、イケてないのだと断じてしまいたい気はする。だけどそう断じてしまったあとでも、アイデンティティにしといて咎められることのないことがらと、それをアイデンティティにするなんて貧しいことだと思われるようなことがらと、その差は残る気がするな。貧しさ。つまり、これは、自分とはなにものかという話ではなく、お前の生きざまが豊かなのか、しみったれているのかという話なのだ。いや正確に言えば、しみったれたことがらをアイデンティティにするそのセンスがどうしようもなく貧しく、そのことがその人の生を救いようのないものに見せてしまう、という話か。マトリョーシカのような。言いかえればセンスとか見た目って結構大事で、だってそれは服とか暮らしだけじゃなく人生とか生きかたに対しても言えることだから、ってことなのかな。人生には見た目と実質の区別はあるのかな。そりゃあるのかもしれないが、ほかのなにごとよりもまして、生きざまにおいてはどっちも大事だという気がする。善く生きたけど醜く生きたとか、なんか矛盾してる気がするもの。ほかのもろもろのことどもにおいても、本当は、見た目と実質どっちも大事なんだろうね。理屈ではわかるけど。どっちかを切り捨てようとするのは、理の必然ではなくて、実際的な理由からなんだろうなあ。


2016.04.03 (日)

なんかこう……、経験を通して学んだことを活かす前に生活が割り込んできちゃうというか、そんな感じがある。そんな感じで生きている。ひとことで言えば忙しいのだが、別様にも言えるだろう。経験してせっかく分かったことがあっても、今の生活をまわすことにあせって、経験の声を右から左に流してしまう。そのとき感じたことをビデオみたいに録画して積んでしまう。なー。と思った。確かなことは、そういうことが息をするようにできるためには、ありあまる暇があれば……。しかし、ここで思い描いているのはもちろん大学生時代のことなんだけど、当時は当時で独特の焦燥があったのも忘れてはならなくて。独特の、というか、わけのわからない、むだな焦燥だったのかもしれないけど、それを止めることはできなかった。し。だから一概に学生の頃を懐かしむというか黄金の時代として振り返るのは美化のしすぎだなとこの頃は思えているのですけども。可能性がいっぱいあるのにつかめない感じというか。やりづらいことやもどかしいこともたくさんあったし。でも考え事したり、それを言葉にしたり、ふとした機会に深めたりする時間はいっぱいあった。そして時間がいっぱいあると人間、自然にそういうことをしだすものだというのも知ってる。自然にできないのなら工夫してそれをやろうというにすぎないのですがね。話の結論としてはね。


2016.03.31 (木)

朝は目覚めたら家を出る時間の10分前で、食事も洗濯もなくただ着替えだけして家を出た。前日疲れていたわけでも酒を飲んでいたわけでもなく、意味もなく寝坊したなと思っていたが、昼ごろから鼻水が止まらなくなり、鼻水が止まらない状態が収まらなくなり、急ぎの仕事もなかったのでしばらくのためらいののち早めの退勤を申し出て4時過ぎに会社を後にした。体調はすぐれなかったが時間には余裕ができたため、通ったことのない道を通って駅まで歩いた。最寄り駅のそば屋でカレーライスを食べて、ドラッグストアで体温計とキットカットを買って帰宅した。ふとんを敷いて熱を計ってみると、自覚してはいたけど平熱で、ただ鼻水ばかりがやたらに出るという症状。時期の重なりからみて花粉症とも違う。とにかく寝て治すことにした。寝れば治る。というか寝て治す以外の対処法を知らないのだなと思った。9時半ごろに目が覚めた。飲み水が切れかけていることに気付いて、スーパーに汲みに出た(うちは水道の水がおいしくないので積極的に飲み水にはしていない)。帰りに思いついてコンビニでゼリーを買った。小さい頃の記憶から、風邪を引いたときは「たらみ」の果物入りゼリーを食べるものと相場が決まっている。ところでたらみって今あるのかな。もうないんじゃないかな……、と夜の道の上で案じていたが、ちゃんとあった。 "Tarami" とローマ字になってちゃんとあった。たらみのグレープフルーツのゼリーは、果実の味を生かした控えめな甘味で、好ましかった。シロップ漬けのようなうんと甘いのも好きだけどこういうものには良心を感じるな。


2016.03.27 (日)

責任を持って仕事をしよう、という視点を獲得しつつある。獲得せんとしている、くらいかな。今までも、目的に対して必要な作業を導き出して実行する、くらいの自主性は発揮してきたものの、結局は受け身で、どこかから降ってきた仕事に対して反応して逐一答えを出す、という仕方で生きているのには変わりなかった。ところで、いや、正直に言えば、その「責任を持って仕事をしよう」というスローガンがどういう折に降ってきたのかとか、それがどういう意味をもって湧いてきた言葉なのかも、日記を書いてる今となっては思いだせないのですけども。あぁそうそう、要するに言われたことを言われたままやればとりあえず仕事としては完了にできるし、そのあとで何か問題が起きても「言われたこと」は忠実に実行したわけだから責任は指示を出す段階でその問題に気付けなかった上司なりに帰属することができるけど、それじゃ責任持って仕事したとは言いがたいですよねって話か。洗い物をしておきなさいよと言われて洗い物を済ませて、排水溝にゴミがたまっているのが気になったけど自分の仕事としては入ってないから放置しといた、そのうち水が流れなくなって面倒なことになって、悪いのは俺じゃないけどそのトラブル防げたなぁみたいな。その話と、責任を持つという言葉とがどう関わるかは明確でないが、自らの責任範囲が最小になるように動くんじゃなくて、むしろ、責任というのがひとつの範囲とかブロックを指す言葉として感じられているような。洗い物をするだけじゃなく、排水溝にゴミがたまってきたらネットを取り替えるとか、洗剤がなくなってきたら注文するとか、そうしたことができてはじめて「洗い物を任されている」と言える。そういう、関連しあう一連の行動範囲をまとめて責任と呼んでいる、言葉の側面もあるかもしれない。だから責任者とは複数のものをまとめる役だったりする。

関連する(かもしれない)話としてなのだが、仕事にはお金が発生している。お金が発生していることを自覚して仕事しろよ(お金が発生しているから、ふまじめにやることは許されない)という言い方もあるし、責任というものもお金の発生があるから生じたり、重くなったりするのかもしれない。しかしそれが端的に言ってわからないのであって、お金が出なくても責任をもって洗い物をすることはできるし、お金が出るからといって要求が高くなるのも変な話だ。これはお金が媒介者、価値をもつものそのものではなく価値をもつものと交換できるかぎりにおいて価値をもつもの(ややこしい書き方)であるというその身分の抽象的さがさまたげになっているのではなく、もっと直接の価値あるものに置き換えても同じことが言えると思う。朝昼晩の食事と直接ひきかえに私たちが仕事をしているとする。私たちが仕事をするかわりに雇い主からごはんが出るわけだ。って書くと別に普通のことのように受け取れちゃうな。中間項を省略してるだけだもんな。ともかく、雇い主は言う。ごはんを出しているんだから、まじめに働いてもらわないと困るよ。言い方としてこれが通るのはわかるんだけど、なぜ通るのかがわからない。私たちは雇い主に対して、労働とごはんを交換している。仕事がいいかげんだということは、この交換が不成立だということだ。ただ、ここでいう「交換が不成立」とは自然学的な事実ではない。だいいち、労働とごはんを交換する、という事柄は「いつ」起こったかを指定することはできない。永遠的に生起しているわけでもない。むしろ時間の中で起きているのは、労働とごはんを交換するという「契約」を結ぶという行為のほうだ。つまり交換という事柄は実体としては存在しなくて、むしろ交換する契約だけがある……? よくわからないが、しかし、契約が守られないのならさっさとめしを取り下げにするのが理という気がする(自然学的思考)。だけど、人間はたまにミスしたり疲れてパフォーマンスが下がったりするものだから、そのたびにごはんを取り上げられていてはもたない。だから仕組みとしてはもうすこし弾力的になっていて、雇い主はワンミスでごはんの供給をストップする代わりに注意したり、嫌味を言ったり、脅したりするわけだ。でもそれってもともとの交換という話となんの関係があるんだろう……とかって考えてくると、その、お金というもののもつ強制力を説明するためにずいぶんとたくさんのステップを踏まなきゃならないものだなあと訝しく思えてくる。つまり、構造があまりにも多層的すぎやしないかって。私が不勉強なだけで世の中にはそういうものいっぱいあるのかもしれませんね。


2016.03.20 (日)

卒業した人はおめでとうございます。私は今日は一日断食を敢行しておりました。最近飽食なもんでね。より直接的で切実な動機を言えば、太ってきたもんでね。だが一日めし抜くと痩せるみたいな非常識なほどイージーな考えを抱くまでに私とて間が抜けてしまったわけではなくて、ここしばらくの食事の仕方をいったんリセットしておきたかった、というのが公式の理由。大食いのほうではないんですけど、一人暮らしが始まってから、食べたいものを食べたいだけ食べる、というのが可能になってしまって、ポテトチップスとかももともとは家族で分け合って食べてたのが今では一人で一袋消費するのがデフォルトになってくるじゃないですか、それどころか味比べとかいって一人で二袋いっぺんに食べたりするのではないですか。それに世間にはおいしいものが無限に用意されているので(アイスとか)(ハンバーガーとか)、そういうのをいちいち味見できる財力が確保されているとなると歯止めがきかなくなって……、安いものばかり食べてるからこんな生活が続いてしまうわけですけど、「食べたいものを、食べたいだけ」を影のスローガンにして生きていたら気付いてみればおなかが減りにくくなったしおなかも出てきたので(結局そこ)、一旦この食事ペースを見直そうということで今日は朝のサンドイッチ以外は食べ物を口にしないことに決めているのです。で午後8時。

飢え感はなくって、一日くらい食べ物が供給されなくても溜め込んだ脂肪で全然補えるよと体が主張しているかのごとくだ。仕事するとなると能率は落ちそうだしミスも増えるだろうけど、休日ゆっくり過ごすぶんには何も問題ない。買い物に出ようと玄関で靴を履こうとしたときにちょっとふらっとした気配はあったけど。少なくともカロリーは十分足りてるようだ。カロリー過多なんだな。今度からたくさん食べたいときは野菜とかをゆでてむしゃむしゃ食べればいいのか。で済まないのが厄介なところで……。

思ったのが私は食べたいから食べているというかむしろ「食べておきたい」ものを食べているフシがあって、それは読みたい本とか聴きたい音楽があるとかと同じ種類の欲望で、つまり或る体験をもちたいというよりは、その体験を頭におさめておきたいというような自己肥大的な?欲望であって、コレクター心理に近いものがあるのかなと思いました。食べたいというのが原初的な欲求なのだとしたら、むしろ知りたいとか知っておきたいとかこれを知ってる俺かっこいい寄りの意識で食べ物にも向かっているようなのでありました。しばらく前にエピクロスという人の書き物を読んでいたんですけどそこにはお腹をすかせて食べるときこそまことの快楽だというようなことが書いてあって(読み取って)、そこへくると私の追い求めている快楽はその逆を行っているなぁと反省する一ページもありました。世の中にはおいしいものが山ほどある。しかし私の胃は有限だ。さてどうするか。本や音楽の場合は問題にならないのに、食べ物の場合は問題になるのは……、ほんとは、本や音楽にも、許容量というのはあると思うんだけどね。

書きたいこともっとたくさんあったはずなんだけど、こう文章の流れに乗っていくと用意していた話の半分以上はすっと背景に退いてしまうわけで、そうね、だから毎日書くことには意味があるんだけど、その気持ちをいつも忘れてしまうんだよね。


2016.03.01 (火)

一日の中で自動ドアに4度も拒まれたのは、でもどうしても関係ある気がして、自分はもう死ぬのかなという気がした。仕事で今日はつらいめに遭って、自分が引き起こした問題に周りを巻き込んでしまったという意味でも、それについて有効な復帰策をとれずに周りに甘えっぱなしになってしまったという意味でも、とにかく何も言えなくなってしまってそれがつらかった。問題を起こすと自分が死ぬしかないという思考にどこかでなってしまうようだ。つらくて涙が出たりはしないんだけど、ずっと泣きそうだったけれど、涙は出ない。ただむだに責任ばかり感じていて、頭が回らなくなって、脳細胞がたくさん死んだ気がする。脳細胞がたくさん死んだ気がする。痛みはなくて、いたずらに死へと向かってずれ込んで行くような。だから、自動ドアに4度も拒まれたのは、何も関係はないが、俺って死ぬんじゃないかなと思ったのだ。


2016.02.19 (金)

自分の思考の基調には、「なぜそうでなければならないのか」があって、だけど同時にそれって「そうでなければならない」を前提としてるよなぁと。


2016.02.15 (月)

今日もまた、帰ってから明日の作業のレイアウトを検討するの巻。紙を広げてあーでもないこーでもないと思いつくままに書きつけてみる。眺める。気持ちが固まってくる。向き合う時間が必要なのかも。かりに、お仕事を手堅く完結させるために考えておくべきことはおそらくもっと限られてて、考えるのが上手な人はそれを単線的にたどってみせるかもしれない。僕が2時間かかるところを10分でまとめてみせるかもしれない。ありていに言えば頭があまりよくない。いろんな角度から検討しておきたいんだよね。とにかくいまは目の前の得体の知れないそいつと取り組むために、心の準備が必要。心の準備なんて、ひとたび飛び込んでしまえば話は早いのに。いや入口をくぐるための準備ではなくて、入った先でそいつともうすこし仲良くやるための準備だ、と言いたい。


2016.02.14 (日)

月に一度くらい会うことを繰り返してる人がいるんですけど、その人が環境が変わり忙しくなると聞かされ、これからも今までのように会えるかどうか……、という雰囲気が立ちこめた中で今回は別れたので、なんだかとても不安で寂しくて切なくて何も手につかない気持ちで朝を迎えた。その気分には、昨日から急激に上がった気温もきっと関係していた。あったかくて春が訪れて頭がおかしくなりそうだよ。ただ気温が上がれば草履の出番だってことにも気付いて、玄関に立てかけていたやつをつっかけていつものカラオケに出かけた。外に出ると、靴ばかり履きどおしだった足の甲は白かった。久しぶりの草履は、あらかじめ予想していた以上に開放感があって、それが快適で、少し意外だった。楽だと感じた。寒いということはそれほどに自分を縛っていたのだと知らされた。帰りに梅の花を見た。かすかに匂う。自分でその匂いを取りに行くことはできなくて、ふと風の具合で運ばれてくるのを偶然つかまえる。これ、気付く、と言われることがらだ。梅の匂いとおんなじで、気付いたことを頭のなかにありありととどめておくことはできない。のだ。……。家で、明日から仕事で実施する作業のレイアウトを検討した。今週はハードだとあらかじめ知らされていたので、準備をしておく必要があったのだ。家で仕事のことを考えることはなるべくならしたくなかった。でも今しなかったら明日仕事場にいる時間が延びるだけだし。そ、そう言って、家で仕事まがいのことをする時間がこれから増えてしまうのだろうか。なるべくなら、ああなるべくなら。明日からの作業、どうも定時ベースで終わりそうにない(そう予告はされていたが)ので、作業レイアウトを考える中でそれを思いやって気持ちが沈んだ。未来のことを思いやることで削がれる気力と、実際に仕事に取り組んで目の当たりにする苦痛とは、量も質も特に相関関係はなくて、うーん、今この作業やっとくの失敗だったかなぁ。心の負担を増やすのは体や時間の負担を増やすよりもダメージが大きいからなぁ。

月に一度と言わず、いまここに、そばにいて欲しいんだって、たまに気付いてしまう。言い換えれば、気まぐれでそんなふうに思ってしまうときがある。それがなにかの理由になるかはわからないけど、その、つまり、理由になんてならなくていいんだけど、そんなこと思うときだって僕にもあるよ。


2016.02.01 (月)

気付くと、生きてしまっているなーと。日曜日寝る前にふと。

ふとんから出られないタチだ。ふとんから起き上がってストーブをつけても、腰から下は抜け出せない。支度をしても家から出られない。もっとも、平日は支度が済む前に時間に押されてあわてて飛び出すのだが。

いや、事実に即して考えるのもいまはよそうか。要するに怖いんだよね。人生って何があるかわからないじゃない。いや、そうじゃない。道を歩いてたらナイフを持った男に襲われるかもしれない。それもあるけど、その一日に何が起こるか、根本的に予想ができないところが怖いじゃない。いやいや、何を言っているかよくわからないが、少なくとも「明日は会社に行く」それぐらいはわかるんじゃないの。明日は会社に行く、さもなくば風邪を引いて寝込んでいる。さもなくば、二度と目覚めないかもしれないけど。いやいや、そういう可能性の低いことがらをもって「予想できない」と言っているわけではなくて、一日の中には予想しがたいことが無数にあるんだよ。電車は遅れるかもしれないし(遅れないかもしれないし)、誰かが休むかもしれないし(誰も休まないかもしれない)、昼休みに読んだ本が面白くて頭を離れなくなるかもしれない(特になんとも感じないかもしれない)。そのひとつひとつについて僕はなんらかの仕方で反応し、なんらかの形でその事実を反映するわけだけど、なにが起こるかあらかじめ知ることができないのなら(できるわけがないのだから)、そのつどアドリブで応えるしかなくなるわけ。それが怖いのだ。人生は本質的にぶっつけ本番だって言うんだから。これが最も顕著なのは会話という場においてだ。誰と話すときにどんな話が出るのかなんて予想できるか。コミュニケーションに長けた人ならできるのかもしれないが。ここで「予想」できる、というのは、相手が言うことを5W1Hが揃っているレベルで、しかも会話を始める前の段階で知ることができる、というぐらいの意味で言っているのだが、だから、それが可能か現実的かという議論をしたいんじゃなくて、そんなのできないよねって言っているわけだ。かりにこの先AとBの選択肢があるとしよう。Aが起こるとしたら、つぎはA-1とA-2に分かれる。A-1はA-1-1からA-1-3まで分かれ、A-2はA-2-1からA-2-4まで分かれる。もちろんその先もある。実際どれが起こるかはわからないから、全部のパターンを網羅しておきたい。けど数が多すぎるからそんなことできない。だから準備できない。人生は根源的に準備できないから怖いよね、動けないよね、と言っているんだ。準備できる領域も点々とあって、そこらへんを押さえておくことでとりあえず死なずにはすむけど、死なないだけでは不十分だと思うでしょ?

なので僕は人生を(こういってよければ)積極的に生きたくはないのですが、しかし気付くと生きちゃってるな、と。向こう岸まで流されてるなぁと気付くわけなのです。だからそうやって思い悩まなくとも全体的にみれば勝手になんとかなっちゃってるものなのかもしれないなぁと教訓を得るのもいいですが、生きるの怖い、ムリ、とか口では言いながら本人は道路の真ん中を歩いちゃってるみたいなありさま(思い悩まなくともなんとかなるが、思い悩んでいてもなんとかなる?)が何かしら示唆的な気がして、このこと書いとこうと思って夜中に数行のメモを残した次第なのです。寝る間際に携帯の光は刺さるくらいまぶしい。昨夜はみょうに眠れなくて色んなことがつぎつぎに思い出されて、大学の頃好きだったある人をなんで好きになったのか今まったく思い出せなくていっときの気の迷いだったんじゃないかという気がして暗い気持ちになったり、とにかくいろんな記憶が暗闇で噴出してきて手の甲を掻いてしまったほどなのですけども、その中でも学生のときの研究ザ未完のプロジェクトが完全に未完のプロジェクトだったことに思い当たりましてアイツ(研究対象)のことが頭から離れなくなってホント眠れなかったんですけど、しかし今更研究するっつったって自分が筋が悪いのはわかったし今更時間もないし深夜のいっときの迷いだろーって安心して寝たら翌日バッチリ覚えているんだもんな。あんまりイケてるテーマじゃないってワカったはずなのに、割り切れてないのはなんでなんだろ。興味があるというより忘れられない。


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